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朝露の約束

一、四月

「駄目だ、完全に迷った」
 陽介は山中で途方に暮れていた。芽吹いた若葉が目に鮮やかに、柔らかな午後の日差しは爽やかさという点において申し分ない。これがハイキングであったならどれほど良かったか。
  路線バスを降りてから、かれこれ三時間。引っ越し先の住所である日谷町を目指し峠越えを始めたのは良かったが、一体何処でどう間違ったのか、舗装路はやが て砂利道に、そして獣道へと気が付けば変貌を遂げていた。地図を見るも、自分がどの辺りにいるのか皆目見当も付かない。
「さすがに、日が暮れるまでに着かないと不味いよなぁ」
 目星を付けて歩き続けるも、森はいよいよ深くなっていく。頭上を木々に覆われた山中は薄暗く、ともすれば方角さえ見失いかねない。
 濃い土の匂いと、虫や鳥の鳴き声。草葉を踏みしめる自分の足音が、却って孤独感を煽る。
 歩き詰めの疲労感は不安を加速させ、陽介の脳内に「遭難」の二文字が踊り始めた。
「くそっ、こんな時に〝悪魔〟がいたら!」
 〝悪魔〟は日谷町の守り神で、町に危機が訪れた時現れ、助けてくれるのだという。つい最近まで実在したと言われる、その手の話が好きな連中の間では有名な話だ。
 かく言う陽介も、その一人だ。実在したと言われる伝説が残る地へ引っ越すことが決まった時、彼は小躍りして喜んだ。
 元々、父親の仕事の都合上引っ越しが多かった陽介だが、今回は特別。だから父親の都合が合わなかったにも拘らず、こうして一人でやってきたわけだが……。
 こうなると、ちょっと後悔してしまう陽介だった。
「……って言っても、〝悪魔〟がいたのは三十年前までで――」
 言いかけた言葉を途中で切り、陽介は耳をそばだてる。微かだが、どこからか人の声がしたのだ。
「誰か、いるのかも」
 断続的に聞こえる声を頼りに、陽介は歩き始めた。少しずつ大きくなっているのは、近付いている証拠だろう。どうやら声の主は女性らしい。木の葉を揺らすような、高い声だった。
 声を追ううち、それが歌声であることに気付く。柔らかく澄んだ声が、ゆったりとした旋律を紡いでいた。
 やがて獣道は、それまでの鬱蒼とした森が嘘であるかのように開けた場所に出る。地面には一面緑が広がり、まるで絨毯だ。頭上を遮る木々も無く、覗いた空から陽光が真っ直ぐな軌跡を描いて降り注いでいる。
 そのスポットライトを浴びるかのように、広場の中心に少女が立っていた。
 凛と立ち軽く上を向いた横顔は、十四、五くらいだろうか、陽介と同い年程度に見えた。遠くてよく判らないが、背も同じくらいの高さのようだ。
 黒い、肩が大きく開いたワンピース、黒く流れる長髪。
 その長い髪が揺れるたびに、黒衣の少女は表情を変える。
 その小さな口が動くたびに、流れる旋律は表情を変える。

 まるで、一枚の絵のようだった。

「――あ……」
 思わず感嘆の声を漏らしてから、陽介はしまった、と口を押さえた。しかしもう遅い。少女はびくりと肩を震わせると、こちらを見た。視線を逸らす間も無く、目と目が合う。
「……誰?」
 先ほどまでの伸びやかな声とは打って変わった、鈴の鳴るような声で少女は尋ねた。その声には警戒の色がありありと見える。
「ごめん、邪魔する気は無かったんだけど」
 ぽりぽりと頭を掻きながら、陽介は一歩踏み出した。怖がるかな、と思ったが、少女はその場を動かない。
「今日、日谷町に越してきたんだけど、道に迷っちゃって。君、地元の人だよね? 良かったら、どう行けばいいのか教えてくれないかな」
 本当に困った様子の陽介に、少女の警戒は幾分和らいだようだ。年齢が近いことも幸いしたと言える。少女の方からも一歩近付き、声にもはっきりと判る警戒色は消えていた。
「日谷って、旧集落の方? それとも村の?」
 ごめん土地勘無くて、と陽介は新住所を言ってみる。それを聞いた少女は、すぐに場所の見当が付いたようだ。
「あ、こっち側だね。でも、うんと、えっと」
 少女は、少し考える素振りを見せる。何か問題でもあるのだろうか。
「ここからだと、ちょっとややこしいよ。バス停から行くのに迷う人が、ちゃんと行けるとは思えないなぁ」
 さり気無く痛い所を突いてくる。少女に悪気は無いようだが。
「うーん……じゃあ案内するよ。一緒に行こう?」
「え? でも、迷惑じゃ……」
「いいよ。もうすぐ日も暮れるし、わたしも帰ろうと思ってたところだから」
 話しながら少女は、陽介の前まで歩いてきた。どうやら、警戒は解いてもらえたらしい。
「ありがとう。僕は葉月陽介。春から中三」
「あ、じゃあ同い年だね。わたし霧代真露(きりしろまつゆ)。よろしくね」
そう言って、真露と名乗った少女はにっこりと笑う。花が咲いたような、温かな笑顔だった。

 日谷町は、人口のわりに面積が広い。十年前に山向こうの集落を吸収合併したためだ。さほど大きな山ではないとは言え、それでも日常生活を送る上で山越え は何かと不便なため未だに地元民は〝旧集落〟と〝日谷〟で呼び分けている。言うまでもなく、〝日谷〟が元日谷村を指していて、主要な生活施設は全て山の向 こうとこちらで別々になっている、ということだった。
「だから、始業式からはクラスメイトだね」
 真露は先に立って歩きながら、楽しそうに言った。もう、全然警戒していないようだ。
「確かに同い年だけど……あ、もしかして学年一クラス?」
「うん、そう。田舎だからねー」
 陽介にとっては、編入に先駆けてクラスメイトを得たことになる。引っ越しが多いということは、それだけ転校にも慣れているということで、しかし顔見知りがクラスに一人いるというのは非常に心強い。
「はは、まぁ学校でもよろしく頼むよ、霧代さん」
 途端、真露の表情が険しくなった。眉間に皺が寄っている。
「それ、無し。苗字、嫌いだから」
 堅い声に陽介は、少し慌てて言い繕った。
「あ、ごめん。えーっと、じゃあ『真露さん』?」
「真露でいいよ。わたしも『陽介』って呼ぶね」
 少し態度が悪かった、と思ったのか、真露は仕切り直しのように明るく言った。
「え? いやでも呼び捨てはちょっと……」
「イヤ?」
「自分が呼ばれるのは構わないけど、初対面の女の子に呼び捨てなんて……」
「気にしない気にしない。まず相手の懐に飛び込む、これ人付き合いの鉄則」
 そういうことが出来るのは子供の特権なんだけど、と思いながらも、わざわざそう突っ込むことはしなかった。
「じゃあそういうわけだから、いいよね、陽介」
「解ったよ、真露」
 うーん、何だか負けたような気分だ。少し意地悪したくなって、陽介は何気なく言ってみた。
「それにしても、真露って歌が上手いんだね」
 先を歩いていた真露の動きがぴたりと止まる。黒髪の向こうから覗く耳介が、こちらからでもはっきり判るほどに赤く染まっていた。
「陽介って――」
 振り向いた真露を見て、陽介は思わず吹き出しそうになった。口はへの字で顔は真っ赤、目尻には涙が浮かんでいる。
「――意外と、意地悪だよね」
 ちょっとやり過ぎたかな。しかし、歌が上手かったのは本当だ。見つかりさえしなければ、もう少し聴いていたかった。
「絶対、秘密だからね!」
 真露が顔をぐい、と近付ける。目線の高さが同じ、ということは背も同じくらいということで、それに気付いた陽介は何となくヘコんだ。
「歌もそうだけどっ。あの場所は、わたしの『秘密の場所』だから。絶対に内緒だからね」
 言わないよ、と言って笑った陽介に、ようやく真露は顔を離して再び歩き始めた。あまりのんびりしていると、冗談抜きで夜になってしまう。
「もし良かったら、また歌を聴かせてよ」
 陽介の申し出に真露は「そういうこと言う?」と苦い顔をした。

 真露の案内で無事に新居に辿り着いた陽介は、早々畳に倒れ込んだ。慣れない山歩きで、思った以上に疲弊しているらしい。
 倒れたまま室内に視線を流すと、送った荷物が積んであった。さすがに、もう荷解きをする元気は無い。明日でいいだろう。
 鉛のような身体に鞭打って、荷物の山から布団を引っ張り出す。父はまだ来ないので、一人分でいい。
 広い部屋はしんと静まり返り、微かな虫の鳴き声がちろちろと空気を震わせる。

 ――霧代真露、か。
 どこかで聞いたことがあるんだよな、霧代って。一体何処だったっけ。

 山で会った少女の笑顔が思い出される。白い肌に黒髪と、黒い服装がよく映えていた。始業式から、彼女がクラスメイトになる。
「何だか……楽しみ……だな……」
 目を閉じてこれからの生活に思いを馳せようとした陽介だったが、直後に深い眠りへと引き込まれる。
 その日の夢には、山野に歌う黒衣の少女が現れた。
 可憐で微笑ましく、どこか悲しい夢だった。

 父、葉月大介はそれからほどなくして日谷に到着した。どうやら陽介のように迷うことなく辿り着いたようで、陽介は自分が方向音痴なのだろうかと、本気で悩んだほどだ。
 荷解きや近所への挨拶でそれからの日々は忙しく過ぎて行き、〝悪魔伝説〟を調べている暇は残念ながら無かった。気が付けば始業式の日を迎え、陽介は「転入生」として日谷町立観桜中学校の門を潜ったのだった。
 通された三年の教室には、山で出会った少女、霧代真露が座っていた。陽介を見てすぐに判ったのか、嬉しそうに手を振っている。緊張気味に顔を強張らせた陽介は真露に軽く会釈し、新たなクラスメイトたちに自己紹介をした。
 席は、真露の隣に用意されていた。どうやら真露が担任教師に話をしていたらしく、担任は担任で気を利かせてくれたらしい。
 ふうっ、と席に着いた陽介に、真露が顔を覗き込むようにして話しかけてきた。
「陽介、緊張してる?」
「当たり前だよ。幾分慣れてはいるけどさ」
 仕事であっちこっちを飛び回る父に引っ張り回されて、何度転校を経験してきたことか。
「分からないことがあったら何でも訊いてね。お隣さんになれたんだし」
 どうやら真露は、陽介の席を隣にしてくれ、とまでは言ってないらしい。
 陽介はありがとう、と返すと、窓の外を覗いた。眼下には、桜の花が咲き乱れていた。

 今日は始業式だけなので、すぐに学校は引ける。ただし転校初日の陽介は、職員室で手続きの残りと、その他雑多な説明を受けねばならない。それらを片付けた頃には、時刻は昼を過ぎていた。
 やれやれ、と陽介が職員室を出ると、人影が二つ、彼を待っていた。
 一人は真露で、両手で鞄を提げて立っている。
 その横に、真露よりも頭ひとつ分背の高い少年の姿。確か、同じ三年の……。
「終わった?」
 陽介はうん、と答えて目をしばたいた。何も約束なんてしていなかったはずだ。
「兼人くんがね、陽介を案内したいんだって」
 真露の言葉に、陽介は彼女の隣に立っている少年に目を遣る。整った顔立ちは女の子に人気が出そうだが、ちょっと軽薄そうだ。
「オレは御剣兼人(みつるぎかねと)。一応同級生だ。お前、こないだ引っ越してきたばかりなんだろ?」
ああ、うん、まぁ、と陽介は生返事を返す。悪い人ではなさそうだが、無遠慮に押してくるタイプは苦手だ。
「そんなに広くねぇけどさ、いざって時に土地勘無いと困るだろ。どうせ今日は午後から何も無いし、町を案内してやるよ」
 何も無いって、僕は暇だなんて言ってないんだけど。
 とは言え、多分兼人も好意で申し出てくれているのだ。無下に断るのも忍びない。
「陽介、もしかして予定あった?」
 真露が小首を傾げる。
「あ……いや。真露も来るの?」
「うん。兼人くんがね、どうしても案内したいって」
 兼人を横に見上げながら答えた真露に、彼は苦い顔で文句を言った。
「っつーかさ、何でヨースケは呼び捨てで、オレは『くん』なの?」
「じゃあ……案内してもらおうかな、折角だし」
「無視すんなよ! っつーか何で真露が一緒だと即答オーケーなんだよっ」
 結構、面白い人だ。

 日谷唯一の商店街へ、一同は繰り出した。何故商店街かといえば、最低限の生活必需品しか持って来ていない陽介が「買い物が出来る場所」をリクエストしたためだ。
「この辺は田舎だからなぁ。店は商店街に集中してて、それ以外にはねぇんだよ」
 先に立って歩きながら、兼人が説明する。なるほど、道理で自宅の周りに店舗が見当たらなかったわけだ。
 午後の商店街は、買い物客で賑わっている。道幅は二メートルほどと広くはないが、二百メートルほどの距離に食料品、金物屋、雑貨屋、本屋などがみっちり詰まっていた。時折、豆腐売りの自転車がベルを鳴らしながらその中をゆっくりと走っていく。
「ここ、ここ。うめぇんだぜ、ここのコロッケ」
 兼人の指差す先には、肉屋の一角にある総菜屋。コロッケやカツといった肉系の揚げ物が香ばしい匂いを上げている。件のコロッケは、一個三十円。なるほど、部活帰りの学生に人気が出そうなメニューだ。
「おばさん、コロッケ三つ」
「おばさんじゃないよ、お姉さんって呼びな」
「二十年遅ぇよ……んぐぁっ!」
 あ、兼人が殴られてる。
 隣を見れば、真露が可笑しそうに笑っていた。

「そういえばさ、兼人は〝悪魔伝説〟って知ってる?」
 兼人が名誉の負傷と引き換えに手に入れたコロッケを頬張りながら、陽介は尋ねた。忙しくてなかなか調べられなかったが、地元の人なら何か知っているかもしれない。
 しかし、陽介の期待は呆気なく裏切られた。
「〝悪魔伝説〟? 何だよそれ」
 コロッケをかじる兼人は特に興味も無さそうに訊き返してきたのだ。
「日谷村に古くから伝わる言い伝えで、〝悪魔〟って呼ばれる守護神が村の危機に現れて助けてくれるって話なんだけど……」
「いや? 知らないなぁ。真露は?」
 話を振られて、真露は目をぱちくりしながらも答える。
「え? んと……わたしも聞いたこと無いよ」
「真露も知らないのか。ヨースケ、それ何処で聞いたんだよ」
 兼人の言葉には「それ本当にここの話か?」という雰囲気が多分に含まれていた。
「何処って言われても。その手の話が好きな人の間では、すごく有名な話なんだけど。なんでも、その〝悪魔〟っていうのは、三十年前までは実在していたんだって」
「本当かよ。オレ、そんなの聞いたこと無いぜ。第一、何で守り神なのに〝悪魔〟なんだよ」
 悪魔とは悪いものの象徴だ。何故守護者である存在がそう呼ばれるのか、確かに疑問だろう。
「僕が聞いた話だと、どんな不可能も可能にしてしまうから村人が畏れてそう呼んだ……って」
「ねぇ、止めようよ、その話」
 鈴のような声に振り向けば、真露が立ち止まって不安そうな顔をしていた。
「何だか、怖いよ」
「あ……怖かったかな。ごめんね」
 そんなに怖い話をしたつもりは無かったが、陽介は素直に謝る。何といっても、真露は女の子だ。
「ま、オレはそういうのには疎いからな。何だったら、役場にでも行って調べた方が早いかもよ」
 そう言って兼人は、コロッケの袋をくしゃりと丸める。陽介は既に完食、その様子を見た真露は慌てて残りを口に押し込んだ。

「よし、じゃあオレは家、あっちだから。真露もだよな?」
「うん。それじゃあ陽介、明日また学校で、ね」
 商店街の外れで、二人は陽介にそう言った。随分と遊びまわったのか、既に陽は傾いている。地面に伸びる影が、墨を流したように黒く長い。
「うん。兼人、今日はありがとう。真露もありがとう、わざわざ付き合ってくれて」
 最初こそ渋っていた陽介だったが、今は案内してもらって良かったと思っている。何より、転校してすぐに友人に恵まれたのは僥倖だ。
 長い影を従えて、二人が去っていく。
 東の空には、もう星が瞬き始めていた。

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