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朝露の約束

三、六月

 悪魔。
 何度、そう呼ばれてきただろう。
 村人は皆わたしを畏れ、遠ざかる。一族は一族だけで群れ、決して徒人とは交わらない。
 父は言う。能力を持つ者として、誇れと。
 母は言う。人間など気にするな、驕れと。
 わたしが求めているものは。
 そんなものでは、ないのに。

 あの日、「わたしは〝悪魔〟だ」と言って真露は倒れた。大路神社に運ばれた真露はその後、何事も無かったかのように目を覚ましたが、何も覚えていないようだった。
 念のため診療所で診て貰ったが、特に異常は無い。それ以上何か出来るわけでもなく、一同は解散した。
 それからも真露は、度々あの時のようにおかしくなる。学校ではまだだが、四人でいる時には既に何度も起こった。
 紅玉の目、漆黒の髪、凍る空気、霊(たま)の言葉。全てが、真露とは違う存在だと主張する。
 そこには、あの山野で歌う少女の面影は無い。
「ホントに、参ったねー」
 茅がどさり、と勉強机に倒れ込んだ。続く梅雨のせいで、何だか学校中が湿っぽい。制服はベタベタするし、濡れた傘は邪魔になる。確かに憂鬱な季節だが、もちろんそれを指してのことではない。
「あんな何度も変わられたんじゃ、こっちの身が保たねぇって」
 茅の前の席に、後ろ向きで座っているのは兼人。彼の席はここではないが、本来の使用者は既に下校している。まだ教室には半数ほどの生徒が残り、駄弁っていた。ざわざわとした喧騒が、長雨の不快感を少しだけ軽くする。
「ごめんね、茅さん、兼人くん……」
 元気無く、俯きがちに真露が詫びた。自分が〝悪魔〟と名乗る人間に変貌していることは、既に彼女の耳に入っている。迷惑をかけている、という自覚が、真露にはあった。
「真露のせいじゃないよ。それより、どうすればいいか考えよう」
 その小さな背中に、陽介はそっと手を触れる。元気の無い真露は、見たくない。そのために自分は、何が出来るだろうか。
「やっぱアレだよな、普通の二重人格とかじゃ、ねぇんだろうな」
 どうやら兼人は、まだあの出来事自体が半信半疑らしい。
「それじゃあ、あの超能力みたいなのは説明出来ないじゃない。それに、『日谷の悪魔』って……」
 降ってくる岩を一瞬で消滅させ、真露自身を含む四人を洞窟の外へと飛ばした。あれは、人間に出来ることだとは思えない。
「やっぱり、陽介の言ってた〝悪魔伝説〟ってやつに関係してるんじゃない?」
 兼人と茅が、真露の横に立っている陽介を一斉に見上げる。確かに可能性はあるが、しかし。
「〝悪魔〟が実在したのは三十年前までらしいし……それに、〝悪魔〟が現れるのは、村の危機だけだって……」
「村って、昔の日谷村?」
 茅の呈した疑問に、陽介は肯定で返した。今のところ自称〝悪魔〟は、そんなものとは関係無しに出現している。
「そいつの目的は判らないけど、もしかしたら、さ」
 茅が、何か思い付いたように真露を見た。三人が彼女を注視する。
「三十年前に表舞台から消えていた〝悪魔〟が、真露ちゃんを媒介にして現れたんじゃない?」
 茅の説はこうだ。
 〝悪魔〟は霊体のようなもので、現世に顕現するためには霊媒となる人間が要る。この霊媒となる人間は誰でも良いわけではなく、〝霊媒体質〟という、ある種の素養が必要になるのだ。
「それが、真露だって?」
「ええ、きっとそう。そう考えたら、全部辻褄が合うじゃない」
 懐疑的な兼人と対照的に茅は既に断定している。非科学的な論拠だが、あの日の出来事そのものが非科学的だ。今更、そこを論じる意味は無い。
「もし真露ちゃんに〝悪魔〟が憑いてるんなら、何とかなるかもしれないよ」
 茅が一同を見回して、言った。
「真露ちゃんに憑いた〝悪魔〟を、あたしが祓う。日谷の守り神かもしんないけど、勝手に真露ちゃんの身体を使われちゃ堪んないわ」
 どうする、と茅は、真露ではなく陽介を見る。勝手に憑いたとはいえ、日谷の守護神を祓ってくれなど、真露は言い難いだろう。
 陽介は目を閉じ考える。それで真露が元気になるのなら――何を迷う必要がある。
「わかった、やってみよう。いいかな、真露」
 真露は、ただ黙ったまま、こくりと頷く。
 よっし、と気合を入れる茅を前に、兼人は密かに溜め息を吐いた。
 日谷の守り神だ、そう簡単に祓えたりするものか。
「さてと、そうと決まれば、すぐに準備しないとね。出来れば、〝悪魔〟が表層に出ている時の方がいいんだけど……」
「あ、それなら大丈夫」
 真露が、遠慮がちに声を上げる。
「今なら、思った時に〝悪魔〟を呼べるから」
 椅子から立ち上がりかけた兼人の動きが、ぴたりと止まる。
 〝悪魔〟を自由に呼べる? 神主でも無い真露に、そんなことが出来るのか?
 真露はあくまで霊媒であって、帰神法と呼ばれる神懸りの技術に関しては素人のはずだ。それなのに、何故?
「あれ、兼人どうしたの?」
「ん? ああ、なんでもない。そろそろ帰ろうぜ、ちょうど雨、止んでるしさ」
 陽介に軽く返し、兼人は鞄を肩に掛けた。
 ――真露は、何か隠してる。
 空が重い。教室にはもう、彼ら以外は残っていなかった。

「よし、準備オーケー」
 茅が本殿の奥から出てきた。常衣ではなく、正装をしている。
「あれ、何? その房がついた棒……」
 茅の手には、長さ一メートルほどの、朱に塗られた棒が握られていた。先端には金属製の輪が通してあり、そこに紙で作られた房が数本、束ねて括られている。
「ああ、これ? ウチに代々伝わる神具の一つで、〝祓錫(ふっしゃく)〟って呼ばれてるものよ。あたしが一番得意なやつ」
 そう言って茅は、〝祓錫〟をぐるん、と頭上で振り回した。
 真露はというと、既に境内で控えている。それじゃあ行ってくるね、と茅は、そちらに向かって歩いて行ってしまった。
「大丈夫なのかな、茅」
 陽介は、誰にともなく呟いた。
「さあな。まあアイツ、親父さんに似て霊能力だけはすげぇから」
 答えた兼人の顔は、しかしその内容とは裏腹に強張っている。自然と陽介にもそれが伝染し、今まさに始まろうとしている儀式に、否応無く注意を向けさせられた。
(頑張って、茅。……真露)

「さあ、始めよっか」
 茅が〝祓錫〟をカン、と地に突き立てる。
「それじゃあ、いきます」
 目を閉じて真露が告げた直後、彼女の纏う空気が変わる。再び開かれたその瞳は、紅玉。
 〝悪魔〟が、降りた。
「アンタを祓うわ。悪いけど、真露の身体から出て行って」
 左前半身に、茅は右手の〝祓錫〟を構える。
「出来ないことを言うものじゃない、大路の。遊びにも、ならない」
 〝悪魔〟は構えず、ただ凍てついた空気を言霊に乗せる。離れた所で見ている陽介たちすら怯ませる、凄烈な旋律。茅はまだ、動かない。
「〝大路祓神術(おおじふっしんじゅつ)〟、東大路茅、参るっ!」
 溜めた右足のばねを解放し、茅が疾駆する。〝祓錫〟に左手を添え、左から右へと振り払った。紅の閃光が〝悪魔〟を捕らえんと迸る。
「何の遊戯だ、それは」
 しかし〝悪魔〟は無造作に手を振るだけで、それを打ち消した。蝿を追うかのような、自然さで。
 それでも茅の疾走は止まらない。元より、離れて戦うなど趣味ではないのだ。
「ふっ!」
 右で踏み込み、〝祓錫〟を返して左手に渡す。握られたその先端は、〝悪魔〟に向いていた。そのまま、神速で突き込む。一点必死、一撃必殺の、まさしく〝大路祓神術〟の真骨頂。
「遅い。投げるぞ、受けろ」
 しかし〝悪魔〟は、その一点を的確に見抜いていた。最小限の動きでこれを避け、前で交えた両手で〝祓錫〟を掴む。そして、突きの勢いをそのまま流して投げ飛ばした。
 進行方向に弧を描き、茅が落ちる。と、宙で綺麗に身体を捻り、〝悪魔〟に正面を向けた形で着地した。
「うむ、それはなかなか見事だ」
 無表情に評する〝悪魔〟に、しかし茅は返す余裕など無かった。
 ――ここまで強いとは、予想以上だ。
 いつしか降り始めた雨が、頬を伝う冷や汗を流していく。
(体術も凄いけど……最初の〝紅閃光〟、対消滅でもないのに消された。軌道も変わってないのに、目の前で)
 有り得ない事が、起こっている。とてもじゃないが、敵う気がしない。そもそも〝悪魔〟はまだ、一度も自分から攻めていないのだ。
「……くそっ」
 茅が唇を噛む。強くなっていく雨を衣が吸い、身体が重い。
「本来なら――」
 〝悪魔〟が、その紅い目で茅を見据える。灰の景色に映えるそれは、吸い込まれそうに深く、遠い。
「本来ならこちらも誠意を以って相手をするのが礼儀というものだが。しかし、真露が嫌がるのでな。お前に、こちらからは手を出さない。どうする、大路の。まだ、遊び足りないか?」
 勝負は、決していた。
 茅はゆっくりと膝を付くと、そのまま倒れる。
 止む気配を見せない雨が、茅の顔を無遠慮に濡らした。

 結論から言えば、〝悪魔〟を祓うことは叶わなかった。儀式の後、茅は意識を失い、次の日まで目を覚まさなかった。真露はすぐに元に戻ったが、目覚めぬ茅 に責任を感じ、一晩中側に付いていたそうだ。翌日、何事も無かったかのように登校してきた茅を見て胸を撫で下ろした陽介だったが、真露は事あるごとに「ご めんね」と繰り返し、優れぬ顔色は逆に陽介を心配させた。
「ねぇ真露。明日、みんなでどこかに遊びに行こうよ」
 だから、陽介が元気の無い真露を励まそうと誘ったのは、当然の流れだったのかもしれない。未だ晴れぬ顔で及び腰の真露を、残る二人が強引に引っ張る。
「あれだな、ちょっと遠くまで行こうぜ。隣町からバスに乗って……」
「じゃあ市島アスレチックパークは? 陽介、初めてでしょ?」
 気持ちは同じ。大切な友達を、元気付けてあげたい。
 痛いほどに、染み入るように、真露にはそれが分かる。

 ここにいていいのかな。
 みんなと一緒でいいのかな。

 真露は、滲む視界の中で笑いかけてくれる友人たちに、頷いた。

 翌日は生憎の曇天だったが、予定通り四人は遊びに出掛けた。幸い向こうでは雨は降らず、帰りのバスが峠に差し掛かった頃、ようやく雨粒が窓ガラスを叩き始めた程度だった。
 真露は、徐々に増えていくガラスの水滴を、ぼうっと眺めていた。隣では陽介が、通路を挟んで反対側のシートに座っている兼人と冗談を言い合っている。
 今日は、本当に楽しかった。
 兼人と、茅と――陽介と。
 あの〝悪魔〟を見てもなお、共に笑ってくれる。一緒にいてくれる。今まで、こんなことがあっただろうか。
 しかし、もう真露には思い出せない。失くした時間が、永過ぎて。
「真露」
 呼ぶ声に隣を向くと、陽介が前を向いたまま、静かに言った。
「お祓いはダメだったけど、絶対に真露を助けるよ。〝悪魔伝説〟について、もっと調べて、絶対に助ける方法を探すから。だから……元気、出して」
 こう言ってくれる陽介に、本当のことが言えるだろうか。
 いやだ、怖い、言えるわけがない。
 わたしは生きたいんだ、〝悪魔〟ではなく、霧代真露として。
 だけど、そうだけど、もし陽介が――。
 その時、バスが大きく横に揺れた。響くスキール音、急ハンドルか、身体が左へ――窓の側へ、強く押し付けられる。左側面を強く打ちつけた真露が痛みに耐えながら窓を見ると、後ろへと流れるべき景色が――真っ直ぐにこちらへ、迫ってきていた。
 横滑りしている。ようやく真露がそう気付いた時には、耳障りな衝突音を残して、バスは停止していた。停止の反動で、今度は身体が陽介の方へと吹き飛ばされる。アームレストで身体を支えた陽介が、真露を受け止めた。
 ぎしり、と、嫌な音が車内に響く。バスはガードレールを突き破り、崖の下へと今にも転落しそうな格好のまま、危ういバランスで引っ掛かっていた。恐らく、前輪は既に接地していない。
 車内に満ちる悲鳴。しかし、軋むような音と共に揺れた車体に、それもすぐに凍る。
 誰も、何も、動けない。
 ドアは車体の左側に付いており、ドアの下に地面は無い。後部ドアからならば安全に脱出できるだろうが、破れたガードレールが突き刺さって開きそうにない。ましてや、誰かが少しでも動けばすぐにでも転落しそうな危うさだ。下手に動くわけにはいかない。
 どうしよう。〝悪魔〟なら、みんなを助けられるけど。
 逡巡する真露の手を、誰かがそっと握った。陽介だ。
 ――そうだ、このまま落ちたら、陽介は死んでしまうかもしれない。そんなのは嫌だ。
 助けたい、陽介を。その思いに突き動かされるままに、真露は〝悪魔〟を念じる。

 しかし、何も起きない。

(どうして……まさか、日谷から……)
 真露にとって忌むべき〝悪魔〟を、これほどまでに望んでいるのに。〝悪魔〟は、日谷でしか顕現しないことを、今更ながらに真露は思い出した。今バスは、日谷にない。
 きっと陽介は思っている。「〝悪魔〟がいれば」と。だけど陽介は知らない。〝悪魔〟が、日谷以外では現れることが出来ないことを。
 がくり、と、車体が大きく傾く。耳をつんざく悲鳴。泣き叫ぶ声。バスは、奈落へと落ち始めた。

 お願い、出てきて。
 わたしはあなたを望むから。

 強く願えど届かない。狂ったように加速していくバスの先に、立ち塞がるように迫り来る岩肌。衝突は免れず、避ける手段は何も無い。

 助けたい。
 助けたい。
 助けたい。

 陽介を、死なせたくない。

 パニックの渦の中、誰もが、死を覚悟した。

 直後、不自然なほどに、バスが停止する。突き出た岩に衝突する、まさに直前だった。

 陽介が、そっと隣に目を遣る。
 真露の目が、紅い。

 それは奇跡でも何でもなく、ただ、転落の過程でバスが日谷の中に入っただけのことだ。たとえ起きている現象が、奇跡に等しかったとしても。
 〝悪魔〟の底へと沈んでいく意識の中、真露は感じる。
 陽介に握られた手が、熱い。そう、霧代真露は、この少年を選んだ。そして、〝悪魔〟を受け入れた。――もう、戻れない。霧代……真露には。

「陽介」
 〝悪魔〟が、その双眸を少年に向ける。陽介は、また〝悪魔〟が助けてくれたのだと、混乱した頭で辛うじて理解した。
「真露が望んだ。今ここでお前に告げよう。わたしが守るのはお前だけで、わたしを消せるのもお前だけだ。お前は何を望む? 繰り返しを終えるか、再び真露を留めるか。お前が選べ」
 〝悪魔〟の言葉の意味を、陽介は理解し得ない。しかし伏目がちに淡々と語る〝悪魔〟のそれは、まるで宣告のように感じられた。
「たとえ、それがどんな結末を生もうとも――選択を、悔いるな」

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