朝露の約束
十一、二月
もうすぐ、三十回目の一年が終わる。
あの時陽介は、すぐに答えを出せなかった。
当たり前だと思う。残酷な選択を強いていることも、解っている。
それでも、悩んでくれる陽介に、嬉しいと思えた。真剣に悩んでくれていることが、判るから。
だいじょうぶ。
私は大丈夫だよ、陽介。
たとえ三十一回目の一年を迎えることになっても、私が消えることになっても、私は受け入れるから。
だから、どうか。
悔いの無い、選択を――。
◇
まただ。
また、選ばなきゃいけなくなった。
兼人は以前、「自分がしたい方を選べ」って言ってくれたけど。
だけど、そんなの、選べない。
僕は真露を忘れたくない。真露との一年を、無かったことにしたくない。
――僕が、真露を受け入れれば。
僕は、真露と一緒にいたい。真露がいなくなるなんて、耐えられない。
――僕が、真露を受け入れなければ。
僕は……――。
どうして、僕が――。
◇
全てを知ったあの日、陽介は真露に問うた。
真露は、何を望むのか。真露が望む答えは、どちらか。
今にして思えば、無意味な問いだったのかもしれない。そんなことは、判りきったことだから。
真露はしばらく空を見上げ、振り返り、そして笑った。いつもみたいに優しい――遠い笑顔で。
――わたしは、
積もった雪が眩しくて。
――わたしの存在が残るなら、嬉しいな。
陽介は、真露をまっすぐに見られなかった。
◇
昼休み、いつものように兼人と茅が昼食を手に陽介の机に集まった。
「ヨースケ、メシにしようぜ。机寄せろよ、真露」
「あ……うん、ちょっと待っててね」
んしょ、と自身の机を動かす真露。陽介はその様子を、暗い顔でぼんやり眺める。
もう時間は無いのに。選ばなきゃいけないのに。
「椅子、椅子っと……さあ、食べよ、陽介!」
動きに覇気が無い陽介の背中を、茅はパァンと叩く。先月から、ずっとこんな調子だ。
食事中も、陽介はほとんど喋らない。「ああ」とか「うん」とか、何を言っても生返事である。
一方の真露はと言えば、こちらはいつも通りに、いや、むしろそれ以上に明るい。何か吹っ切れたような、そんな印象を兼人は抱いた。
二人は、目を合わせない。
避けているのとはどこか違う、しかし決して自然には映らないその言動は、兼人に「何かあったのだ」と認識させるには十分すぎた。
残された時間が少ないことは、兼人も知っている。あるいは、陽介は時間に責め立てられているのかもしれない。
――結局。
陽介と真露は、今日も全く目を合わせないまま、昼休みを終えた。
放課後、校門で茅と別れ、三人は下校の途に着く。ぴったりと、寄り添うように並んで歩く陽介と真露。どちらともなく、互いに指を絡め合う。
(何か変だな、ヨースケの奴)
差し出がましいことは解っている。多分、自分に出来ることは、もう何も無い。後はあの二人の問題のはずだ。
しかし、それでも。
「あ……じゃあわたし、こっちだから」
三叉路。真露は、陽介の手を離す。何か言いかけて、結局口をつぐむ陽介。ただ短く、「うん」とだけ答える。
――ああ、ダメだ。見ていられない。
「ヨースケ」
しょうがない。何がどうなってるのか解らないけど、放ってなんておけないよな。
「商店街、行こうぜ」
いつもの肉屋でコロッケを買い、そのまま二人で商店街をぶらつく。
「で?」
紙袋に手を突っ込みながら、兼人が切り出した。
「何かあったのか、お前ら」
「え? な、何かって?」
いきなり核心を突いた質問に、陽介は慌てた様子で聞き返す。
「ケンカでもしたのかって思ったんだけどな。どうもそうじゃないみたいだし」
陽介は答えない。コロッケをかじりながら、兼人は続ける。
「――真露の、記憶のことか?」
途端に動いた陽介の表情から、兼人は肯定と受け取った。そのまま、陽介が話し始めるのを待つ。
一つ目のコロッケを食べ終え、二つ目に手を伸ばしかけた時、陽介が口を開いた。
「真露の記憶を失くさないで済む方法、判ったんだ」
本来であれば喜ぶべきニュース。陽介の沈痛な表情は、まだ続きがあることを示している。
「僕が真露を受け入れれば、真露にかけられていた〝悪魔〟能力の効果が切れて、真露の記憶は無くならない。だけど――」
そうすれば、真露は消滅してしまう。
兼人は溜め息を吐いた。
「それで――お前、どうするんだよ。残ってる時間なんて、もうほとんど無いんだぞ」
「判らない……決められないよ、そんなの」
痛みに耐えるように、陽介は眉根を寄せる。
「僕が真露を受け入れても、拒んでも。真露がいなくなることには変わりがないじゃないか。目の前から消えるか、記憶から消えるかの違いだけで……っ」
気が付けば、足は止まっていた。俯いて、拳を固く握り締める。耐え難き選択に、耐えるために。
「どうして僕が――せめて誰かが決めたことなら諦められた。しょうがないって割り切れたよ。けど、これじゃ僕は、自分で守りたかったものを壊さなきゃいけないじゃないか。どちらも捨てたくないのに、だから探してたのに!」
溢れ出る激高を、陽介は止められない。吐き出して、少し落ち着いた陽介に、兼人は言った。
「それは違うぜ。もし他の誰かが決めてたら――お前、多分『助けられなかった』って、ずっと後悔したんじゃないか?」
それが、自分にとって大切なものなら。
それは、自分で決めなくちゃいけない。
「選ぶってのは、どっちかを捨てるってことじゃない。どっちを選んだって、お前は生き続けなきゃいけないんだぜ? 選んだものを、抱いたままで」
兼人は、陽介の肩を掴み、真正面から睨みつける。
「お前はどうやって生きていきたい、ヨースケ。真露との一年間の思い出を抱いてか、それとも他人になっちまった真露を、他人として見ながらか!」
僕は、
僕、が――。
兼人が離れる。
背を向けて、彼は言った。
「悩めよ。考えろ。オレも茅も、真露に関しちゃ何にも言えないんだ。お前が決めるしかないんだよ、ヨースケ。そんで選んだら、振り返るな。振り返るくらいなら、選ぶな。お前しか選べないことを選んだなら、お前はお前に誇っていいんだぜ」
◇
兼人と別れ自宅に戻った陽介は、居間の畳に倒れ込んだ。仰向けに、天井を眺める。
僕はどうしたい? 真露のいない日谷で生きていくのか? 辛さも、苦しみも、悲しみも、
忘れてしまえば、楽だろう?
目を、閉じる。
春に来てから、今までを思い返してみる。
もうすぐ消えるかもしれないこの記憶が、なんだかとても、貴重に思えた。
脳裏に真露が笑う。照れたようなその笑顔が、とても貴重に思えた。
――わたしは、
「秘密の場所」で。
――わたしの存在が残るなら、嬉しいな。
真露は、そう言ったんだ。
僕にとって、真露の「存在」ってなんだろうか。
僕の真露は、どこに在るんだろうか。
考える。
手を伸ばして、霞の先にある答えに触れてみる。
陽介が、そして真露が求めるその先は――。
夜が明け始めた頃。
陽介は、最後の選択を決めた。