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朝露の約束

十二、三月

 まだ少し冷たい空気の中に暖かな風が混ざり始め、冬の間に積もった雪は、もうほとんどが溶けてしまった。校庭に植えられた桜の枝では、よく見れば固い蕾がいくつも、春を待っている。
 三月。
 陽介たちは、日谷町立観桜中学校を卒業した。

 兼人は隣町の高校を、茅は日谷の高校を受験する。陽介は、大介の仕事の都合で転居が決まり、都会の高校を受験することになっていた。既に荷物は纏め終わり、明日には日谷を出ねばならない。
 卒業式を終えてから、陽介は真露に小さな紙切れを渡した。
 ただ、一言、

 「秘密の場所で待ってる」

 それだけを書いた、メモを。

 先に来て、待っていたのは陽介だった。町に比べて、まだいくらか雪の残る山中、冬の残滓を踏みしめて、真露は月草の野に足を踏み入れる。
 二人の間に言葉は無い。
 ただ並んで、しばらく空を見上げていた。
 透き通るような、淡い青だ。真天に昇る太陽が、柔らかな日差しで陽介たちを包む。
 真露が、天の先を見つめながら、静かに口を開いた。
「前、言ったよね。朝露は、陽の光で消えてしまう……って」
 八月、真露が陽介を拒絶した時のことだろう。自分は、朝露だから――そう言って、真露は陽介と距離を置いたのだ。
「だけどね。お日さまの光を浴びないと、露はただの露なの。眩しいくらいに輝くのは、照らしてくれる太陽があるからなんだよ」
 真露はゆっくりと、陽介へと視線を移す。陽介もまた、真露に顔を向けた。
「わたし、陽介に会えて良かった。ただの露だったわたしを、陽介は照らしてくれた」
 まだ少し肌寒い風に黒髪を泳がせて、真露は穏やかに笑う。不安も畏れも、そこには無い。
「だから、大丈夫だから。陽介が選んでくれたなら、わたしはそれが嬉しいから。だから、教えて。陽介が選んだ、答えを」
 言うんだ。伝えるんだ。僕が決めたことを、僕が選んだことを。
 陽介は、大きく息を吸い込んだ。
「僕は、真露がいなくなるなんて嫌だ。もし……もし互いに忘れてしまったとしても、いつかまた、会えるかもしれない。また仲良くなれるかもしれない。その時には、もしかしたら真露が消えなくても済む方法が見つかるかもしれない。可能性は……あるだろ?」
 真露は黙って、答えを待っている。陽介は目を閉じ、「だけど」と続けた。
「次に会う真露は、今ここにいる真露じゃない。一緒に一年を過ごしてきた真露じゃない。僕が一緒にいたいのは――今まで一緒にいた、真露なんだ」
 陽介は、今にも泣きそうな顔で、笑ってみせた。
「それに――僕には出来ないよ。真露を、拒むなんて」
 真露がずっと求めていた言葉を、三十年目にやっと出会えた答えを、陽介は紡ぐ。
「僕は、受け入れる。好きだから、真露が、大好きだから」

 言い終えた瞬間、白い閃光が走った。真露を中心に、それは日谷全体へと広がっていく。
 慎太郎が三十年前に設定した、真露を取り囲む全ての効果が、解除されていく。
 眩しいほどの光の中、その中心に。
「ありがとう、陽介」
 静かに笑う、霧代真露がいた。
「真露、僕は……っ」
「あのね、陽介。朝露は陽に照らされ、そしていずれ消えるわ。だけど夜が来て、また朝になれば、必ずそこに朝露は在る。必ず、お日さまとまた出会う」
 日谷を覆うほどに広がっていた光は真露に収束して、それは揮発するように、少しずつ真露の存在を奪っていく。
 真露がそっと、右の小指を差し出した。
「だから、約束。わたしが朝露で、陽介が太陽なら、きっとまた会えるから。ううん、絶対に、会いに行くから」
 小指を絡ませて、指切りをする。陽介はそのまま、真露を抱き寄せた。
「真露……真露……っ!」
 震える声で、少女の名を幾度も呼ぶ。春には同じくらいだった身長も、今は少しだけ陽介の方が高くなっていた。胸の中の真露を、陽介は強く抱き締める。
「陽介……」
 終わりは一瞬だった。
 光が散るように、真露の体が霧散する。
 最後に。

「大好きだよ、陽介」

 それだけを、言い残して。

 腕の中から消えた温もりに、陽介は崩れ落ちる。
 零れ落ちる涙が月草を濡らし、漏れ出る嗚咽が草葉を揺らす。

 「嫌だ、消えないで、行かないで」なんて言うものか。
 僕が選んだんだ。悩んで、苦しんで、それでも決めたことなんだ。
 誰にも間違いだなんて言わせない。言わせてたまるものか。
 僕は忘れない、絶対に忘れない。
 ここで出会って、ここでいなくなった、

 誰よりも大切な、彼女のことを。

 少女の消えた地、少年の慟哭は、淡い初春の空にいつまでも、そしてどこまでも響いていた。

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