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朝露の約束

七、十月

 文化祭が終わると、日谷の山は一斉に色付き始めた。赤や黄に染め上げられた木々は鮮やかで、教室の窓から見える風景を彩っている。落ち着いた色味のその 景色を見ると、茅はいつも懐かしいような、寂しいような、妙な気分になる。と同時に、境内の庭掃き仕事が増えるので憂鬱になるのだが、それはこの際忘れて おく。
「おーいヨースケ、飯食おうぜ……って、何だよ茅、またいるのか」
 右手にパンを掲げた兼人が、差し向かいで弁当を食べている二人に寄っていった。陽介の前の席は茅が占領しているため、兼人は隣――真露の椅子を拝借して座る。結果的に三人分の食事が載せられる事になった陽介の机上は、何とも狭苦しい。
「いいじゃない。あたしは陽介と食べたいから食べてんの。ああもう、狭いんだから、兼人は膝の上にでもパン載せてなさい」
「んな無茶な。っつーか茅、『陽介を食べたいから――』って……」
「陽介『と』!」
 もう慣れたものだ、と陽介は気にせず弁当の中身を口に放り込む。そういえば茅は、最近毎日ここへ昼食を摂りに来る。他の女の子に誘われることも多い茅は、今まであまり一緒に食べなかったのだが、何か変わったことでもあったのだろうか。
 ああ、窓際だからか、と陽介は外に目を遣る。秋だし、景色は綺麗だし。あんまりそういうタイプには見えないけど、多分風景を楽しみながら食事をしたいんだろう。一応女の子だし。

 文化祭が終わってもなお、茅は陽介と出来るだけ一緒にいるよう努めた。真露の方しか見ていない陽介の意識に、少しでも自分の存在を割り込ませたいという 思いも、あるいはあったのかもしれない。ただ単純に、一緒にいたかっただけなのかもしれないし、その両方かもしれない。少なくとも一緒にいる間は、幸せな 気分になれた。
 だけど、このままじゃいられない。このままでいいわけない。
 陽介が見ているのは、真露だけだ。このままただ黙って一緒にいたって、絶対に陽介は気付いてくれない。賭けたっていい。
 だってニブだし。どニブだし。
 このまま黙っていたら、そしてそのまま春になったら、自分が何もしなくたって最大のライバルは消えることになる。でも、それじゃ意味が無いでしょう?
 茅の足は、今、屋上へと向けられている。
 いるはずだ、そこに。最大の、ライバルが。

「茅……さん……」
 重たい鉄扉を開いて現れた茅を見て、真露は一瞬びくりとした。茅とはもう二ヶ月近く、話らしい話をしていない。このような場所で二人きりではさすがに気まずく、入れ替わりに出て行こうかと考えたがそれも何だか態度が悪いので思い留まった。
「真露ちゃんにね、話があって」
「話……?」
 近付いてくる。夕陽が長く映す真露の影の先を踏んで、茅が。
 真っ直ぐに自分を見つめて歩む茅からは、いつもと違ってプレッシャーを感じる。思わず一歩退いた真露だったが、茅の目がそれ以上の後退を許さない。
 二人の間を、一陣の風が吹き過ぎる。一歩、もう一歩踏み込むべき距離で、茅は足を止めた。茅の表情には、いつものふざけたような笑顔は無い。
 しばらくの沈黙の後、茅はゆっくりと口を開いた。
「真露ちゃんは陽介をどう思ってるの?」
 真露は硬直した。その問いに対する答えを、真露は持っていない。否、考えないようにしていた、が正しいか。
 答えに詰まる真露に茅は、答えられないよね、と薄く笑った。口調と、口の端だけで。
「あたしは、陽介が好き。あたしはちゃんと言えるよ。逃げないもの、自分の気持ちから」
 茅が、陽介を、好き。真露は、頬を思いきり叩かれたような気分だった。
 最近ずっと陽介と一緒だったのは――。
「……だから、だったの……?」
 小さく、真露が言葉を漏らす。手が、小刻みに震えて止まらない。
「何だ、ちゃんと見てるんじゃない――逃げてるくせに」
 茅の遠慮無い言葉が胸に突き刺さる。違う、逃げてない、逃げてるんじゃない――。
「あたしは、あんたみたいに逃げない。陽介にちゃんと言う。好きですって、誰よりも好きですって」
 駄目。言っちゃ駄目。
「明日午後四時に、体育館裏の池に陽介を呼び出す。そこで言うから。もう、決めたから」
 それだけを言って、茅は再び鉄扉へと足を向けた。もうほとんど沈んでしまった太陽は、もう影と呼べるものを映さない。
 重たい音を残して、扉は閉じた。
 真露は柵の向こうに顔を向ける。茅の言葉が、胸の中で渦を巻いていた。
 もう陽介とは関わらない。だから、茅が陽介に何を言おうと関係無い。だけど、でも、そんなこと。
 違う。私は逃げてない。逃げてるんじゃない――。

 朝、いつものように登校する途中、兼人は橋の向こうに陽介の背中を見付けた。隣には、短く外に跳ねた赤毛。茅だ。
 ――今日は一緒にご登校か。
 兼人は、一人溜め息を吐く。大路神社は、兼人の自宅とは反対方向だ。どう考えても、二人が一緒にいるのはおかしい。茅がわざわざ、こちら側に回ってきたのだろう。
 ――どうやらあいつ、本気で陽介に惚れたっぽいな。
 茅が気付いていないわけがない。今陽介を好きになっても、応えてもらえるか判らないことぐらい。
 でもなぁ、と兼人は思う。茅の性格じゃ、それでも言っちまうんだろうな、陽介に。
 その時、あいつはどう答えるかな。
 本当は応援すべきだと思う。茅は親友だし、陽介だってそうだ。だから、ちょっと策の一つでも弄してくっつけるのが、御剣兼人の在り様なのだと思う。それは、解ってはいる。
 でも、だけどさ。
 一応オレ、茅が好きなわけだしさ。
 二人の背中が遠ざかる。いつしか、兼人の足は止まっていた。
 ああ、仲良く歩いちゃって、まあ。
 それが嫉妬であることも理解している。そして、それは表に出すべきでない感情であることも。
 選択肢は三つある。
 一つは、自分も茅にアタックを仕掛ける。
 一つは、茅が玉砕するよう仕向ける。
 一つは、諦めて二人を応援する。
 ――いや、どれも選べないだろ。茅の玉砕を願うなんて最低だし、二人を応援出来るほどオレは人間が出来てない。だからって同じ舞台に上がれるほど茅が好きかって訊かれたら……うーん、正直自信が無い。先の知れてる勝負が出来るほど、無鉄砲でもないしな。
 陽介の奴は、どう思ってるんだろ、茅のこと。多分、あいつ自身は真露が好きなんだと思うけど、多分自覚してないし。もし茅が告白なんてしたら、きっと揺らぐよな。
 どうしよう。
 訊きたくてしょうがないな。陽介が、あいつをどう思ってるのか。
 ホント、どうすべきかな、オレは。

 今日の授業が全て終わって、十五分が経っていた。
 茅は今、体育館の裏に設けられた小さな池の畔で、陽介を待っている。
 ――ああ、さすがのあたしでも、ドキドキするなぁ。
 そっと胸に手を当てる。規則正しく響く鼓動が、痛いくらいに強く、速い。
 深呼吸一つ、茅はぐっと水面を睨んだ。
 ――大丈夫、出来る。頑張って、茅。あんたは言えるわ、絶対に。
 池の表面に浮かぶ落葉が、ゆらりと揺れる。
 ――来るかな、あの娘は。
 見せ付けてやるんだ、あんたなんかとは違うんだって。あんたなんかに、負けないんだって。

 授業が終わってすぐ、いつものようにそそくさと帰り支度をしながら真露は、茅の言葉を思い出していた。時計を見ると、約束の時間まであと三十分だ。
 ――関係無い、私には関係無い。
 教科書を全て収めた鞄の口を、僅かに震える手で閉じる。
 ――だって、私は違う。同じ時間を生きてない。同じ所に、立ってない。
 鞄を掴み、立ち上がる。帰ろう、いつもみたいに、いつものように。

 しかし、正門は閉ざされていた。水道管が破裂したとかで、門の向こうでは工事が行われている。こんな時に限って――間が悪いとしか言いようが無い。
 行かなきゃ。
 裏門に――体育館の、横を、通って。
 足が重たい。動悸が激しい。落ち着かない。
 途中、時計を見る。四時まで、あと二十分。
 定まらぬ足取りで歩を進める。裏門が見えた。遠い。体育館。この向こうで。

 この向こうで、茅が。陽介が。

 関係、無いけど。だけど、近くまで来たし。ちょっと、ちょっとだけ。ちょっと見るだけ。そしたらすぐに帰るから。だから、ちょっとだけ。
 呼吸が苦しい。頭が回らない。一歩踏み出すたびに膝から崩れそうになる。
 着いた。この角を曲がれば、池が見える。
 踏みしめる木の葉の音さえ耳に障る。そっと覗いた先、向かい合って立っている二人が見えた。

「ごめんね、呼び出したりして」
「ううん。でも珍しいね、こんな所で話なんて」
 わざわざこんな人気の無い所に呼び出すくらいだから、何か大変な話なのだろうか。陽介は少し緊張し、身構える。
「文化祭、大成功だったね」
 茅が明るい調子で言った。何か重要な話をされるつもりでいた陽介は少々拍子抜けしつつ、
「先生たちには好評だったけど、あんまりみんなの受けは良くなかったよ」
と、苦笑しながら返す。
「でも、楽しかったじゃない。多分ね、あたしたちが一番、文化祭で燃え尽きたチームよ」
 うん、そうだ。
 茅との作業は楽しかった。同じ趣味を持っている連帯感というか、話の通じる心地良さが、そこにはあった。
「うん、僕も。僕も、すごく楽しかった。もし来年があるなら、茅とまたやりたいくらいにさ」
 茅が胸の前で、手をぎゅっと握り締めた。その顔には緊張感がありありと浮かんでいる。
「……やろうよ」
 ぽつり、茅が呟いた。
「またやろう? 来年も、再来年も、その次も……」
 え? と問い返す陽介に答えず、茅は一歩、踏み込んだ。
「あたしね、陽介と一緒にいて楽しかった。同じことが出来て、嬉しかった。だから、これからもずっと一緒にいたい。一緒にいて、同じことをしたい」
 一際強く吹いた風が、木々を揺らした。落葉が、ざあっと宙を舞う。
「あたし、陽介が好き。友達としてじゃなくて、もっと、特別な」
 強く、真っ直ぐに、茅がこちらを見て言った。
 ――えっと、それって、つまり、そういうことだよね?
 まさかこういう話だとは想像もしていなかった。心の準備も、何も出来ていない。でも、何か言わないと。茅が待っている。だけど、何て? こういう時ってどう言うんだっけ?
「あ……ぼ、僕は――」

 駄目っ!

 混乱しながらも口を開いた陽介を遮ったのは、悲痛な叫び声だった。その元に振り向いた陽介の目に飛び込んできたのは、

 蒼白な、真露の顔。

 どうして真露がここに……いや、もしかしなくても、今の話を聞かれた……?
「あ……」
 真露はしまった、というように顔を歪めると、くるりと後ろを向いて走り出した。
「ま、待って真露!」
 それを追い、駆け出そうとする陽介の腕を茅が掴む。
「ダメ、行かないで陽介っ」
 必死に縋る茅に、陽介は我に返った。確かに、ここで茅を置いて追いかけるなんてしちゃいけない。だけど、真露を放っておくことも出来ない。
 ――くそっ、僕はどうしたらいいんだよ。
 長い、沈黙。
 ずっと腕を掴んだままだった茅がようやく口を開いたのは、辺りが薄暗くなり始めてからだった。
「返事。すぐじゃなくていいから」
 そして、陽介の腕から手を離す。外気が触れたそこは、ひんやりと冷たい。
「だけど忘れないで。あたし、ホントに陽介が好きだから。誰にも負けないくらいに、好きだから」
 それじゃ、あたしは先に帰るね、と言って、茅は駆けていった。
 茅の言葉、真露の顔。
 全てがない交ぜになって、頭の中をぐるぐる回っている。停止した思考のまま、陽介はただ、呆然と立ちすくむしかなかった。
 空を見上げる。
 薄く、星が瞬き始めていた。

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