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BLACK=OUT

第八章第一話:朱い茶

 見果てぬ夢。
 手を伸ばし、掴もうとしても。
 それは、するりと逃げていく。
 あるいは、正義が。
 あるいは、狂気が。
 悪魔に売る魂など持たぬ。
 売るくらいであれば、いっそ我が悪魔になればいい。
 逃しはしない。
 今度こそ。

「こんな所にいたのか、日向博士」
 呼びかけられ、振り向いた男は50代前半だろうか、やや細面な印象を受けるものの、強い意志を感じられるその瞳は、対峙する者を怯ませるだけの力を持っている。
「何か用ですか、ブライア総統」
 口調は丁寧だが、日向博士の言葉にはどこか険がある。その証拠に、両手はのりの効いた白衣のポケットに入れっ放しにしていた。
「例の件、どうなっている」
「『碧』は失敗ですね。どうやら『朱(あか)』が邪魔をしたようで」
 さらりと、涼しい顔で日向博士は返した。実際、彼は興味などないのだ。
「……『封神(ほうしん)を騙る者』か」
「ええ……ですが、私は彼女を重要視してはいませんよ」
 ひどくつまらなさそうに、日向博士は続ける。
「私が欲しいのは『黒』、それも『封神の力』を得た『黒』だけです」
「だが彼奴は、未だ目覚めぬ」
 ブライアと呼ばれた男が、苦虫を噛み潰したような顔をしている。尤も、彼は普段からこんな顔だが。
「まだ使える駒も残っていますよ」
 その目が、冷たく薄く開かれ。
 語る言葉は、聴く者全てに戦慄を与える旋律となる。
「『白』を、先に落とします」

 MFTへの通達事項本日分/No.1602。
 MFTのオペレーションルームでようやくそれを読み終えた宮葉小路が、大きく息を吐いた。チームリーダー就任後、最初の仕事が、この1600通を超える報告書へ目を通す作業だったのだ。
 ぐりぐりと、大きく肩を回していると、盆に茶を載せた四宝院が入ってきた。
「お疲れさんです、隊長」
「ああ、助かった。ちょうどお茶でも飲みたいと思っていたんだ」
 四宝院は慣れた動作でティーカップをコンソールの上に置く。ちなみに、コンソールの防水は完璧ではないので、零(こぼ)したら一大事である。
 ずずっ……。
 低いファンの回転音がわずかに満ちる室内に、宮葉小路が茶を啜る音が響いた。
「あれ、茶葉変えたのか?」
「ええ、グァバのええのが手に入ったんで、ちょうどええかと」
「うん、悪くない」
 以前はメイフェルが入れてくれていたのだが、これがどうにも良くなかった。
 宮葉小路は決して茶にうるさい方ではないが、何でも飲めるわけではない。
 茶の湯は風呂の温度、カップに茶葉が泳いでいるのだ。茶とは呼びたくない。
 あまりにも不憫なので、四宝院が代わりに入れる、と申し出てくれたのだが、これが思いの外上手であった。彼いわく、「モテるためには何でもやったさ」らしい。
「和真はどうしてる?」
 しばらく茶を楽しんでから、宮葉小路が尋ねた。
「神林さんと模擬戦やってます。メイフェルはそっちのオペレーションを」
「マークスは?」
「それが……多分自室やと思います。どうもあの事件からこっち、元気が無いみたいで……」
 あの事件、とは即ち、マークスが神林と戦った事件のことだ。宮葉小路自身も同じ状態になったので、彼女の気持ちも解る。そう簡単に日向や神林と顔を合わせるなど、出来はしないだろう。
「そうか……上手くないな、今の状況は」
 そう言って宮葉小路は、再びカップに口を寄せる。しばらく考えて、宮葉小路は口を開いた。
「こういう時は……アレだな」
「アレですか?」
「ああ……アレだ」

「で……一体なぜこんな所に来ているんだ?」
 憮然とした顔で日向が言う。
 目の前には夥しい人、人、人……。店の前に座る中年男性が声を張り上げ、クレープを売るトラックに向かって、若い男女が各々の注文を叫んでいる。
 そう、ここはβ2区の名所「露店街」。自動車二台が、ようやくすれ違える程度の幅しかない道路の両脇にみっちりと露店が、その周りにはみっちりと人が詰まっている、終日縁日の世界。
「色々あったし、たまにはな。大体、僕の隊長就任祝いだってしてもらってないぞ」
「自分で言うな馬鹿」
「でも、これだけの人出だと、ちょっと歩くのも大変ね」
 神林が、物珍しそうに周囲を見回しながら言った。まるで玩具を与えられた子供のように、目がキラキラしている。
「そうだな。命はもうさっきからウズウズしているし……二手に分かれて、二時間後またこの場所に集合しよう。いいかな、和真」
「は? あ、まあいいけど……」
「うお! 利君あれ! あれ何!?」
 ……日向が答えるか答えない間に、神林が宮葉小路を引きずって行ってしまった。
「そ……そういう訳なんで……マークスを頼むよ和真ぁ……」
 最後の方は、露店街の喧騒にかき消されて聞こえなかった。哀れ、あの分では生きて戻れまい。
「何か訳わかんねぇ事になったな……とりあえず俺たちも行こうぜ、マークス」
 そう言って日向が振り向く。マークスは、彼の三歩後ろで縮こまっていた。
「ん? どうしたんだよ?」
「い……いえ、その……何でも、無い、です」
 小さな声で、やっとそれだけを言うと、マークスはじっと俯いてしまった。
「変な奴……」
 ぼそっと言うと、日向は気にせず歩き出した。マークスも遅れないように、だが決して近づき過ぎないように歩き出す。日向とは背が違うので、半ば小走りになりながら、ちょこちょこと。
「マークス」
 と、突然日向が立ち止まり、振り向いたかと思えばこう言った。
「あまり離れんな。近くにいねぇと逸れるぜ」
 そしてすぐさま、ぷいっと顔を背け歩き出す。
「……うん」
 見上げれば、頭上に太陽がある。じきに、昼だ。

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