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BLACK=OUT

第八章第八話:朱の向こう側

 それは、静かな夜だった。
 目の前で、静かな寝息を立てる少女は、白いシーツを纏った陶器の人形(ひとがた)。
 その脇で、青灰の流髪を持つ少年がそれを見つめる。
 安いパイプ椅子に腰掛けた少年は、自らの腿に肘を突き。
 祈るように組んだ両の手は、額に当てられたまま動かない。

 雲に隠れて、月は、無い。

 二人が初めて出会った日のように。

 それは、静かな夜だった。

「どういう事だよ四宝院! 何でマークスだけ目を覚まさない!」
 メディカルルームに響く、焦りと不安を孕んだ日向の怒声。
 露店街での戦闘から救出されたMFTの面々は、既に意識を回復している。
――唯、一人を除いて。
「恐らくは、精神的に不安定な状態だったのが災いして、脳に受けたダメージが深刻なんやと思われます。幸い、生命に危険は無いし、じきに目も覚ますでしょうが……」
 難しい顔をしながら、四宝院は言う。
「それより日向さん、あんたの方が不味いんちゃいます? BLACK=OUT、覚醒したんでしょ?」
 確かに、今は日向自身の自我が表層に出ているが、いつBLACK=OUTに主人格を乗っ取られてもおかしくない状態だ。BLACK=OUTを活性化させないよう、メンタルフォースの使用を制限したとしても時間の問題だろう。
「……マークスを、看てくる」
 考えないようにしていた話だったのか、憮然とした顔でそういい残すと、日向はメディカルルームを出て行った。
「ほんまに、ねぇ」
 去っていく日向の後姿を見送りながら、四宝院は一人呟く。
「もう気付いてると思うんやけどな、日向さんも。怖いんやろうな、誰かを大切に想うって事が」

 もう、どれだけこうしているだろう。
 マークスはあれから、一向に目を覚ます気配が無い。
 まさか、このまま目を覚まさないのでは、という思いに日向は囚われ、慌ててそれを振り払う。
 その、繰り返し。
「ったく、いつまで寝てんだ、こいつ……」
 言葉とは裏腹に、その顔は不安に満ちている。
 日向は知っていた。
 自分に近付いた人間は、皆傷付くと。
 だからこそ離れた。離れようとした。
 誰かを守れる力を、その強さを持たない自分だから。
「何でだよ……何でこんなに弱いんだよ、俺は」
 あの時、宮葉小路は言った。
 勝てるから戦うんじゃない。大切なものを傷付けられるのが嫌だから、戦わなければ壊されてしまうから戦うのだ、と。
 そんな強さを、自分は、持てない。
 自分が持つ力は、自分だけを守るもの、そして仇を倒すためのものだった。
 否、その、はずだった。
 父に殺されたのだと思っていた母は、自ら死を選んでいた。たとえ父が間接的な原因だとしても、「自らの封印」を選択したのは間違いなく母で、そこには他の手段を選ぶ余地もあったはずなのだ。
 もう、「母の仇」というだけでは、父を追えない。
「じゃあ俺は、どうしたらいいんだよ……」
 この力は、誰も守れない。
 この力で、倒すべき者は無い。

 在るのは、いつ覚醒するか判らない別人格を抱えた、意味の無い自分だけ。

 静かに、夜が流れていく。
 微かに響く二人の息遣いだけが、確かに存在する時間の流れを認識させる。
 出口の無い思いが渦巻いたまま。
 ただ静かに、夜が流れていく。

 やがて、雲に隠れた月が、再び青白い光で室内を照らし出したとき。

 日向と、ベッドを挟んだ向こう側。
 青く浮かぶ窓際に、その女性は佇んでいた。

 二人は、そのまま見つめ合う。
 長い時間を埋めるように。
 遠い時間を繋ぐように。
 言葉は無く、音も無い。
 分かたれた二点、それを、少しずつ、近付けながら。

「かあ……さん……」

 口を開いた日向の頬を、一筋の涙が滑り落ちる。

「あらあら、泣いちゃダメよ。男の子でしょ?」
 優しく諭すその声、その仕草。
 忘れはしない、彼女は、自分の母親だ。
「だって……俺……」
 言葉になど、出来ようか。
 詰まる胸から溢れ出た想いは雫となり、口を開けば唯、嗚咽。
 待ち侘びる事さえ許されなかった、十年前からの失われた願いが、そこに在るのだから。
「和真、あなたの中で、お母さんは生きてきたわ」
 その微笑みは、たおやかに。
「あなたは、今までお母さんを守り続けてきたのよ」
「そんなの、……だって、俺は!」
「あなたが人から離れ、遠ざけようとするのは、その人を守りたいから。あなたは、優しい子だものね」
 ベッド一台で隔てられた向こう側で。
 手を伸ばせば届きそうで、決して届かない向こう側で。
 記憶の欠片が、静かに笑う。
「和真、あなたは、どうしたいの?」
 少しずつ薄れていく、母の姿。青白く消える、淡い月。
「い、嫌だ! 行かないで、お母さんっ!」
「もう、時間みたい。ごめんね、和真。何もしてあげられなくて。……あなたは、あなたの望む事をしなさい。黒い記憶に、惑わされないで」
 目一杯伸ばした、幼い頃の自分の腕。
 それは、もう届かない。

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