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BLACK=OUT 2nd

第一章第一話:邂逅の、青

 無造作に掴んでボタンを押す。沈黙したのはテレビだ。ちゃぶ台の前で胡座をかいている男が新聞から顔を上げる。
「征二、何すんだ」
 動じることなく、征二は手の中のリモコンを壁掛けのポケットに放り込んだ。
「何度も言ってるでしょ。ご飯食べながらテレビ観ちゃダメだって。ほら、それも片付けて。ちゃっちゃと食べちゃってよ」
 うるさいなぁ、と男は新聞を――今では珍しい紙のものではなく、デバイスだが――片手に持ったまま、適当に食卓のものを片付け始めた。もぞもぞ動く、短く切られた髪を眺めながら、征二はため息一つ、シンクに向き直る。
「征二は細かい。小姑かお前は」
 男の文句にも、征二は涼しい顔だ。
「水島さんが大雑把過ぎるんだよ。僕じゃなくても、誰だってこうなるさ」
 減らず口を、と水島は顔をしかめる。
 狭いアパートに住む二人は、ご近所には親子であると説明している。だが四十代半ばの水島と、二十歳そこそこの征二では歳の差があまり感じられず、ましてや「父」のことを苗字で呼ぶのを知っているご近所さんは、あまり信じていないようだ。
 と、水島の胸ポケットで音が鳴った。呼び出しだ。
「はい、もしもし。……ええ、私のですが……はい……分かりました、すぐに」
「仕事?」
 電話を切った水島に、征二は手を拭いながら尋ねた。
「ああ、俺の部下が何かやらかしたってな。――何で分かるんだ?」
 訝る水島に、征二は苦笑しながら答える。
「水島さん、仕事の時は自分のことを『私』って呼ぶでしょ。分かるよ」
 妙な所で目ざといな、と水島はぼやきながら、上着の袖に腕を通す。
「今日は早く帰れる?」
「そのつもりだけどな。何かあるのか」
「夕ご飯のおかず、水島さんの好物にしようかと思って」
 俺の好物は多いぞ、と言って、水島がブーツに足を入れた。複雑な編み紐が目立つ、彼のお気に入りだ。
「ま、それなら早く帰れるよう努力しよう。じゃあ行ってくる」
 ドアが閉まり、安い鉄板の階段を降りる音を最後まで聞いて、征二はふぅーっ、と大きく息を吐いた。急に静かになった部屋の中を、ぐるりと見回す。小さなチェストの上に立ててある写真立てで、いつものように視線を止めた。
「今日も仕事だって。オフの予定だったのに、忙しいね、水島さんは」
 写真に語りかける。写っているのは、小さな男の子だ。五歳くらいだろうか、補助輪の付いた自転車にまたがり、こちらを見ている。
「征士君からも言ってあげてよ、僕が言っても聞かないから」
 征二は、征士のことを知らない。会ったこともない。知っているのは、この子が水島の息子であり、既にこの世にいないことだけだ。
 ――いや、仮に会ったことがあったとしても、征二はそれを、覚えていない。

 征二には、二年前以前の記憶が無かった。

 この奇妙な同居生活を始めて、そろそろ一年になる。何も持っていない征二に、水島は大切なものをくれた。
 名前と、家族。
 征二は水島を、父のように思っている。水島もまた、征二を実の息子のように扱ってくれた。
 ドアを出て、表札を見てみる。並んでいる、二つの名前。
 ――「水島柾」「水島征二」。
 水島には恩がある。だが自分はまだ、何も出来ていない。何も返せていない。これではただの、甘えた居候だ。家事も、身の回りの世話も、それだけで、彼にとってどれくらいの助けになっているのだろう。
 まだ、全然、足りない。与えてもらった名前と家族、それに釣り合うだけのものを、返せていない。
 ――僕は、水島さんに何が出来るだろう。
 付きまとう焦燥感に背を押され、征二は階段を降りて行った。

 向かった先はβ区である。ここは商業区域に指定されており、店舗も充実しているため買い物には都合が良かった。もうすぐ昼時であるせいか、人出も多い。人混みが苦手な征二は、さっさと用事を済まそうと道の端を足早に歩き始めた。
 案の定、というべきだろうか。程なくして誰かと正面衝突してしまった。
「あ、あいたたた……」
「ご、ごめん。大丈夫?」
 尻餅を付いた少女に手を差し出す。プラチナブロンドの髪の少女が、痛そうにお尻をさすっていた。
「いえ、こちらこそすみま……」
 顔を上げた少女が固まった。どうしたの、と声を掛けると、唇が僅かに動いた。

「和真……さ……」

 え、と聞き返すより早く、少女が征二に抱きついてきた。
「和真さん、和真さん、和真さん!」
 征二は突然の展開に付いていけない。目を白黒させながら、少女を引き剥がす。
「ちょ、ちょっと待って! 僕は――」
「和真さん、今までどこに――」
「僕じゃない!」
 自分でも驚くほどの大声。少女も驚いたらしく、続きを口にはしなかった。周囲の視線が何だか痛い。
「……人違いだよ。僕は、君の知っている人じゃない」
 努めて冷静に、言い含めるように訂正すると、少女の顔が見る見る悲しそうな表情に変わっていった。胸が痛むが、それ以上に、

 知らない他人の名で呼ばれることに、耐えられなかった。

「本当にごめんなさい、私ったら……」
 そのまま放っておくわけにもいかず、少女が落ち着くまで待った。あまり人の多くない公園に移動したのは、少女に対する配慮というよりも、周囲の視線が気になったせいだが。
「私、マークス=アーツサルトといいます。二年前に行方不明になった、日向和真という人を探してるんです。それで……」
「そんなに、僕は似てた?」
 苦笑しながら尋ねると、マークスは恥ずかしそうに、はい、と小さく頷いた。
「あ、でも、話してみると全然雰囲気が違いました。和真さんはもっと、何ていうか……ぶっきらぼうです」
 口も悪いし、結構自分勝手だし、とマークスは唇を尖らせる。その仕草は幼い容姿と相い合って、微笑ましくさえ見えた。
「好きなんだ? その人のこと」
 マークスは真っ直ぐに征二を見て、はい、と大きく頷いた。

「落ち着いたみたいだし、僕はもう行くね」
 しばらくマークスと話し、頃合いを見て、征二は腰を上げた。特に時間に追われているわけではないが、無為に過ごすのも躊躇われる。
「あ、はい。あ、あの、お名前だけ、いいですか?」
 水島征二だよ、と宙に字をなぞりながら答える。日本人ではなさそうなマークスだが、漢字も達者なようで、どうやら通じたようだ。
「今日は本当にすみませんでした。またどこかでお会い出来るといいですね」
「そうだね。それじゃあ――」

 さようなら。

 自分が口にする前に、その声が聞こえた。
「今の……」
 マークスが顔をしかめている。広がる違和感。周囲の色が塗り替えられていく感覚――。
「こんな時に……」
 マークスが睨む先。その視線を追いかけても、何も見えない。だが感じる。何かが、
「来る」
 瞬間、暴風のように周囲の色が変わった。いや、そう感じるだけなのか。本能が感じる視界と光学的な視界がオーバーラップし、何が見えているのか分からなくなる。

 さようなら。
 さようなら。
 さようなら。

 声が響く。反響し、脳を掻き回す。耐え切れず、征二は頭を押さえた。視界の端に映る少女は――マークスは、微動だにしていない。
「マークス、これは、……っ」
 ちらりと横目で征二を見て、すぐにマークスは視線を戻した。
「干渉を受けてる……水島さんも、メンタルフォーサーだったんですね……」
 戦えそうにはないけど、とマークスは言った。
「何を――」
「あいつです」
 マークスが指差す。いつの間にかそこに、一人の女性が立っていた。随分と痩せていて、腰まで届く髪のせいもあってか、まるで――棒のようだ。
「母体です。このサイコロジカルハザードの元凶ですね。とても局地的ですけど」
 これぐらいなら、とマークスは続けた。その顔は、先ほどまでの幼さを残した少女のそれとは違う。もっと――冷たい……。

「私一人で、殺せます」

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