インデックス

BLACK=OUTシリーズ

他作品

ランキング

BLACK=OUT 2nd

第三章第五話:青の空はどこまでも遠く

 嫌な予感は往々にして当たる。今の征二が正にそうであった。
 何の前触れもなくマインドブレイカーが現れたのは、即ち、この場でマインドブレイカーが生まれたからに相違ない。つまり、母体がすぐ近くにいるということだ。
「くそ、最悪だ……」
 頭を押さえながら征二が呻く。視界の向こうでゆらゆらと身体を揺らす母体が、すっと右手を上げた。
 来る。
「やめろっ!」
 征二が叫んだ刹那、母体の髪が一気に伸び、二人に迫った。それが征二に到達する直前で掻き消える。
 ――間に合った。
 痛みを抑え、懸命に張ったシールドは、数日前と同じく征二の命を救った。シールドにより遮断されたせいか、母体の精神攻撃も止んでいる。
「あれ……何?」
「母体だよ」
 征二の後ろに隠れた少女に答える。たとえ精神攻撃でも、もしその矛先が少女へ向かえばマインドブレイカーのそれとは比較にならないダメージを受けるだろう。そうでなくても、母体は彼女に物理的なダメージを与え得る。一刻も早く逃げ切るべきか。
 ――否。
 少女を連れている以上、逃げ切れる保証などどこにもない。
「僕の後ろを動かないでね」
 征二は左手を前に突き出し、シールドを展開し直した。同時に。
「ファンクション・ファクタ・サドネス・セレクタ……」
 記述並行詠唱は、まだ征二には出来ない。口述で、しかし可能な限りの速度で術式を展開していく。
 詠唱宣言、属性宣言、対象宣言、効力設定、複雑な手続きを順次踏んで、己の内面、精神へと構築する。
「よし、行け!」
 圧縮した感情を、一気に爆発させる。放たれたテクニカルが加速し、母体に迫った。激しい音と共に命中する。凍る母体。
「よし、今のうちに……」
「ダメ!」
 少女の声に母体を注視すると。
「届いて……ない――?」
 母体は自らの髪を編み、自身の前に髪のカーテンを展開していた。編み目の隙間から、母体の目が爛と覗く。その昏さに――背筋が、凍った。
「来るよ!」
 少女が叫ぶと同時に、母体から無数の髪が一斉に伸びた。四方八方から襲う漆黒の槍。展開しているシールドは前面のみだ。再展開している余裕はない。
「ごめん!」
 叫び、少女を抱きかかえて地を転がる。回る視界の端、髪が急角度で曲がるのが見えた。
 ――追うのか、あれは。
 追い付かれるのは一瞬だ。それでも意味はある。四方からの攻撃は全て、征二の背中へと向けられることになるのだ。
 少女に覆い被さった姿勢のままシールドを展開する。征二を貫くはずだった髪がシールドに弾かれ消滅するが、彼には見えない。征二に見えているのは、視界一杯に広がった少女の顔だ。
「あ……」
 漏らした少女の吐息が、征二の頬をくすぐる。今にも触れそうな距離に、少女の顔があった。
「大丈夫」
 真っ直ぐに、少女の勝気そうな瞳を見つめる。きっと背中では、今も無数の髪が征二を襲っているだろう。この状況では、もう下手に動けない。
「君は、僕が守る」
 どうして、と少女が呟いた。
「それが僕の役目だと思うから」
 だがいつまで保つだろうか。シミュレータでのシールド連続展開は、今まで最長でも二十一秒だ。展開しっ放しという状況は、精々詠唱中に限られるため、それ以上の連続展開は試した事がない。いつまで耐えられるかは、未知数だ。
(僕が死ねばこの娘も死ぬ。何とかしなきゃ……)
 動けない。下手に動けば少女に当たるかもしれない。母体に背を向けている以上、母体を狙ってのテクニカル詠唱は不可能だ。
(……そうだ、それなら――)

 狙わなきゃいいんだ。

「ファンクション」
 詠唱宣言。
「ラストジャッジメント」
 発動鍵設定。
 狙う必要はない。自分が守らねばならないのは、この娘だ。母体を狙えないのなら、周囲全てを攻撃すればいい。
「ファクタ・エンジャー・バー・オール・フォー……」
 周囲全範囲殲滅用テクニカル。術者を中心に、半径三十メートル圏内を全て焼き尽くす攻撃。術式が複雑で詠唱に時間も掛かるが、これなら。
(間に合え……間に合ってくれ!)
 背中では、絶え間なく母体の攻撃が続いている。祈りながら征二は、術式の最後をまとめ上げた。
「間に合った……!」
 後は発動鍵を口にするだけだ。そうすれば、母体も含めた周囲全てが焼却される。もちろん母体以外にも甚大な被害を及ぼすだろうが、そんなもの、知ったことか。
「ラスト――」
『待って!』
 遮った叫びに、征二は思わず息を止めた。
『そのまま、動かないで!』
 インカムから聞こえる声は、マークスのものだ。直後に、銃声が響き渡る。振り返ると、母体は大きく後退していた。
『牽制用のテクニカルを、早く!』
 慌てて征二が新しく術式を構築して展開する。ダメージを与える必要はない。母体の周囲にばら撒くような攻撃を放ちながら、征二は体勢を整えて少女を背中にかばった。
『上出来』
 インカムの声は笑っているよう聞こえた。
『本当は宮葉小路さんたちを待った方がいいんですけどね。また逃すのも何ですから、倒しちゃいましょう。水島さん、私が母体を足止めしたらあいつを倒せますか?』
「無理だよ、それは……」
 征二のテクニカルはあの長い髪で編み上げられた盾に阻まれ、届かなかった。回り込めばあるいは可能かもしれないが、征二にそれだけの機動力はない。
『仕方ないですね。じゃあ水島さんはそこで要救助者を守っていて下さい。――私が片付けます』
 コツ、と足音がした。振り返ると、いつの間にか真後ろにマークスが立っている。手にしている銃は、彼女がいつも携行しているものと比べて、かなり銃身が長い。一般的な銃より厚みがあり、三十センチほどの長さの板の中央に空いた穴がグリップになっているようで、そこに右手を突っ込んでいる。そこから銃口までも六十センチ以上あるので、全長は一メートルくらいになるだろう。背の低いマークスは当然これをぶら下げて歩けず、銃口を上に向けて半ば担ぐような格好だ。
「マークス、それ……」
「狙撃装備です。こっそり練習してたんですよ」
 腰のホルスターには、ちゃんといつも使っている拳銃が二挺、しっかりと収まっている。接近してからの備えも万全か。
「宮葉小路さんがね、言ってました。『全力でぶっ放すだけが戦いじゃない』って。水島さんには是非、それを学んで欲しいですね」
 ゆったりとした歩みで、マークスが前に出る。コツ、コツと、白いブーツが黒い路面を叩く。纏う怜悧な殺意は、おとなしそうな普段の印象を払拭する。
 ――彼女は。
 二年前を生き残った、戦士だ。
「この場所を、貴方に壊されたのでは堪りません」
 それは、征二の背筋すら凍らせるほどに冷たかった。
(敵意を……向けられた……?)
 少女を背中に守りながら、前に立つマークスの背中は――。

「さて、聞こえますか、母体」
 銃を担いだまま、マークスが呼びかけた。
「残念ですけど、あなたは母体になってしまいました。あなたはもう人間じゃない。苦しいと思います。悲しいと思います。その辛さは、良く分かるつもりです。だけど、あなたはもう戻れない。あなたの心は完全に壊れてしまった。あなたを壊した妄執は何ですか? あなたがばら撒いているのは、あなたの想いです。あなたは何を、どうしたかったのですか?」
 ――さようなら。
 ――さようなら。
(くっ……また、声、が……!)
 征二は顔をしかめたが、さっきほど酷くはない。シールドを展開しているせいか。
「わ……た、し、は……」
 母体が口を開く。
「だい、す、き……か、れ、が……わ、わたしを……見て、いなくても……」
 泣いていた。髪の隙間から覗く母体の目には、確かに涙が浮かんでいる。
「彼が、のぞ、むなら……わた、し、は……」
 母体が右手を持ち上げる。そこには、血塗れのナイフが握られていた。
「でも、いっしょに、いたい……あの娘の、代わりでも、いい、から……好きなの、好き、すき、すき、すきスキスキ……」
「……そんなの……」
 征二は。
「おかしい、おかしいよ! 悪いのは君じゃない! 君に他の誰かを重ねて見ていたそいつが悪いんだろう!? なんでそんなことで、君が苦しまなくちゃいけないんだ!」
 思わず叫んでいた。そいつのせいで母体は今から殺されるのだ。何も悪くないのに。何一つ悪くないのに。
「ちがうの」
 母体が、顔を上げた。長い髪に隠れていた表情が露わになる。

「わたしは、ふたりともだいすきだったの」

 笑っていた。泣きながら、母体は笑っていた。
 だからなのか。征二は、拳を固く握りしめた。二つの想いに挟まれて、歪んで、狂ってしまうなんて――。
「そんなの、間違ってる……間違ってるよ……」
 そして彼女は母体になった。もう二度と人間に戻ることのない、マインドブレイカーをばら撒く存在に。
「今のあなたは、一個のサイコロジカルハザードです。分かりますか? あなたの妄執が、私と、私の大事な人たちを殺すんです。――だから私が殺します。あなたと、あなたの妄執を」
 マークスが銃を構えた。突撃銃を構えるようにストックを肩に当て、左手で長い銃身を支えて、スコープを覗きこむ。
 母体がそれに反応して髪を編み込み、盾にする。征二のテクニカルを一切通さなかった、鉄壁だ。
「ファンクション・チェーンスロット・バー・セット・アレイ・ファクタ・エンジャー・セレクタ・イビルソース――」
 スコープを覗いたまま、銃口をぴくりとも動かさずにマークスが詠唱を始めた。両手は銃で塞がっているため、口述詠唱しか出来ない。それでも征二には信じられない速度で複雑極まる術式を構築していく。
「駄目だ、マークス!」
「駄目じゃありません」
 マークスの声はあくまで冷たい。
「これを放置したら、貴方の大事な人が死ぬかもしれない。誰かの失いたくない人を傷付けるかもしれない。私は、私たちは――」
 マークスの、引き金に掛けられた指に力が込められる。
「――それを、許さない」
 小さな破裂音とともに、銃口が真紅に発光した。銃口から飛び出したのは弾丸。極限まで圧縮された、メンタルフォースの塊だ。それは寸分の狂いもなく、一直線に母体へと飛んでいく。攻撃を一点に集中することで能力の拡散を抑え、確実にダメージを与える攻撃は、だが征二のテクニカルよりも出力が低い。これでは、髪の防壁を突破出来ないだろう。
 そう征二が直感した直後に着弾、――母体は半ば吹き飛ぶように、後ろへ仰け反った。
(髪の……隙間を、通した……?)
 我が目を疑う征二だったが、それで終わらなかった。
「――チェーンスロット」
 マークスが呟き、再び引き金を引く。二発目は大きい。征二の全力よりもなお出力において上回る砲撃が、腕ほどの太さの光線となって放たれた。一発目を被弾し、体勢を崩した母体にこれを躱す余裕はない。頼りの防壁は先の被弾で緩んでいる。
 砲撃は、母体の上半身と下半身を二分し、終息した。ややあって、母体の身体がどさりと地に落ちる。
「発動保留です。詠唱だけ先に行なっておき、好きなタイミングで解放します。今回は術式に二つとも組み込むことで短縮しました。応用可能な術式ですから、水島さんも是非覚えてくださいね」
 振り返り、マークスが笑う。大人しくあどけない、少女の顔で。
「……何で……」
 何なんだ――こいつは。
 どうして、たった今、人を撃ち抜いた銃を持ったまま、そんな風に笑えるんだ。
「……っ!」
 征二は、地面に倒れた母体へと走り寄った。息を切らして、母体の上半身を覗き込む。周囲に髪を散らしながら、母体は仰向けに倒れていた。
「……これで、また……」
 その目は空を見ていた。覗き込む征二の顔の向こう、どこまでも続く空を、まっすぐに。
「ふたりに、会える、のね……」
「……何で、母体になんかなっちゃったんだ……嫌だって言えば良かったんだ、誰かの代わりじゃなくて、自分を好きになってくれって、そう言えば良かったんだ。なのに……!」
 訳もなく涙が出た。彼女はもう助からない。彼女の愛した二人も、もう還らない。誰一人幸せになれないまま、何一つ得ることのないまま、マークスの銃がそれを終わらせた。
「きれいね……わたし、やっぱり……あおいそらが、いい……」
 その言葉を最後に、母体は、少女に戻った。
 耐え切れず征二は天を仰ぐ。
 迸る慟哭は、青い空に吸い込まれていった。

ページトップへ戻る