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BLACK=OUT 2nd

第九章第三話:亀裂

 霞がかった海原を漂うようだった。辺りを見回しても何の影もなく、暗い水面がゆらゆらと頼りなく揺れるだけだ。
 水島征二は一人だった。
 誰かいないかと声を上げようとしてやめる。その声が誰にも届かないことは明白だ。この水槽には、きっと誰も入って来れない。
 そう安心していると、視界を遮っていた靄が少しずつ晴れ始めていることに気が付いた。征二は恐怖する。霞の向こうには、水島が見えた。ひとつ、またひとつ、誰もいなかった海原に影が増えていく。宮葉小路、神林、四宝院、メイフェル、そしてマークス。彼らは、征二の知らない顔をしていた。いや、違う。
 知っている。見たことがある。
 水槽が、嫌な音を立てて軋む。歪みが硝子を断裂させ、亀裂が長く、分岐し、四方に走る。征二は絶叫した。頭を抱え、座り込み、自分を守ろうとした。
「何が気に入らねぇんだ?」
 背後から声が聞こえる。
「一人は嫌だっつったのはお前だろ? いいぜ、俺がお前をこの檻から出してやる」
 こんなことを、望んでなんていなかった。こんなものが欲しかったわけじゃない。自分はただ、自分を認めて欲しかっただけだ。一人の人間として、誰かと比較することなく、無二の人格として接して欲しかった。ただ、それだけなのに。
「何のために?」
 背中の声が、静かに責める。
「こんな狭い水槽の中で、ここから出ようともしないで、それで?」
 仕方なかった。
 征二は、体を丸めて耳を塞ぐ。
 傷付きたくない、傷付けないでくれ。これ以上、僕の大事なものを——。
「お前には何もない。過去のないお前には、大事なものを失くしたことすらない。お前が今守りたいのは自分だろ? だから俺の力を、シールドとしてしか使えない。——もう、こうなっちまったら仕方ねぇ、俺にも守りたい奴がいる。少しだけ、お前の体を借りるぞ。そのために邪魔なもんはぶっ壊す。その後のことは、自分で考えろ」
 強い風が吹いた。霞は残らず流され、隠されていた全てが露わになる。
「いいか、覚えとけ。戦うってのは、こういうことだ」
 激しい音を立てて、硝子が砕け散った。

 ライカの拳が、唸りを上げてマークスに迫る。BOBはまだしばらく使えない。通常の反射能力で避けるにはライカの速度は速すぎる。それでも。
(逃げない、逃げたくない!)
 今はもういない仲間の、そして日向の。目に焼き付いた動きが、マークスの身体を押し運ぶ。決してスマートとは言えない精度で、それでも確かに、雷を纏うライカの拳撃を振り切り逃げる。
 重心が上がっているせいか、姿勢がぐらつく。神林ほど体幹を鍛えているわけでもない。
 鬼気迫るライカがマークスを睨む。その必死は、完全にマークス一人を敵と認めていた。
 理由は考えるまでもない。征二だ。マークスにも分かる。これがもしマークスなら——日向を貶め傷付ける者がいるのなら、きっとそいつを許さない。
「奔れ雷!」
「レジスト!」
 ショートレンジでライカが詠唱する。ノースヘル特有の単語詠唱。汎用性は乏しいが、こと発動速度に関してはB.O.P.のそれを軽く凌駕する。マークスはその発動を確認するよりも早くレジストした。一筋の雷撃が複雑な軌道でマークスに迫り、レジストによって弾けて消える。しかし体勢を崩したマークスには、レジストの反動を受け切ることは出来なかった。尻餅をつき、起き上がろうとするマークスに餓狼が迫る。マークスは、視界を占める割合を増していく青白く光る拳を、ただ睨み付けた。
 ——こんなところで、死ぬわけにはいかないのに……!

 鈍い、音がした。

 マークスの鼻先で拳が止まる。ライカの攻撃は直前で、何かに阻まれていた。
「征二? どうして……」
 ライカの戸惑った声で我に返る。今目の前にある、拳を止めたモノはメンタルフォースの刺突剣、カタールで、それは突如現れた征二の手に握られていた。
「ファンクション・ファクタ・ヘイトフル・セレクタ——」
 征二が空いた片手で、宙に記述する。見る間に彼の周囲が紫の瘴気に満たされた。
「悪いがちょっと、どいてな!」
 口調はおよそ征二とは思えないが、聞き覚えのある懐かしさで、征二は瘴気の塊を放つ。突如寝返った征二に混乱したまま、ライカは身体に叩き込まれた反応で後ろへ下がり、テクニカルを避けた。
「よお、遅くなってすまん。怪我はねぇか、マークス」
 征二が振り返る。唇の端を吊り上げ、生意気そうに、でも、その目はとても優しい——
「あ……」
 声が漏れた。視界が滲む。
 ずっと、ずっと求めていた。ずっと探していた、その顔が、声が、今、目の前にある。
「征二、どうしちゃったの? 一体何が……」
 ライカだけではない。ノースヘルの他のメンバーも、予想だにしない展開にどう対処すればいいか、決めかねている。
「ライカ=マリンフレア。残念だが俺は水島征二じゃない。俺の名前は——」
 真っ直ぐに。右手のカタールを、前に突き出す。マークスからはその後ろ姿しか見えないが、それでも分かる。きっと今、彼は人を食ったような顔で、少し生意気そうに笑っているのだろう。
「俺の名前は、日向和真だ」
 待っていた。ずっと待っていた瞬間が、ここに。
「日向? 日向って、まさか……」
「ああ、征二と瓜二つという……一体どういうことだ?」
 フォーの素っ頓狂な声に、戸惑いを隠せないセブンが答える。ライカは呆然と立ち尽くしたままだ。
「ほうほう、お主が噂の日向某か。お主の正体が何であれ、妾たちに牙を剥くなら妾はお主を排除せねばならん。討たれる覚悟あっての翻意よな?」
 雅が、こちらはなぜか少し嬉しそうに舌なめずりをする。見上げるように笑う和装の少女は不気味なほどに妖艶で、マークスの背がぞくりと冷えた。しかし日向は気にせず、むしろ面倒くさそうにさえ感じられる様子である。
「やめとけやめとけ、お子ちゃまに俺が倒せるわけねーだろ」
「言ってくれるな日向とやら。妾は成りはこんなじゃが、こう見えてノースヘルでも五指に入るテクニカルユーザーじゃ。並のインファイターでは、妾に触れることすら叶わぬぞ」
 得意気に胸を張る雅。テクニカルユーザーなのに接近戦を好み、乱戦の中でターゲットだけを吹き飛ばすほどの制御は、マークスも経験している。手にしている扇は、恐らく事前の仕込みにより、振ることで無詠唱のテクニカル発動すら可能にする代物だ。どんなインファイターでも接近しなければ攻撃は出来ない。テクニカルユーザー相手なら接近すれば勝てるが、雅にそれは通じない。無詠唱で全方位攻撃を連発するような滅茶苦茶に、手を出せるインファイターは多くないだろう。
 だが。
「悪りぃな、俺はインファイターじゃなくて、マルチファイターなんだ」
 接近戦を主体とし、敵の攻撃を一身に受けて耐え、後衛のテクニカルユーザーの詠唱時間を稼ぐのがインファイターなら、詠唱時間の短いテクニカルと接近戦を織り交ぜながら、足で敵集団を掻き回す——それがマルチファイターで、かつての日向のポジションだ。
「マルチファイターとて同じことじゃ。お主では妾に指一本触れることなど出来はせぬ!」
「さて、どうだか——」
 日向の背中が、小さく震えた。
 ああ——彼は今、笑っているのだ。
「試してみるか? よく見とけよ、一瞬だ」
 ふん、と鼻を鳴らして雅が扇を構える。その首筋に、背後からぬっと刃が伸びる。
「な、言ったろ?」
 雅が、その切っ先を横目に見て硬直する。日向が、背後に立っていた。

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