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BLACK=OUT 2nd

第五章第六話:守りたい場所

 低く響く音は、今はもう聞き慣れたポンプの音だ。決して広くない部屋の壁という壁は、全て水槽が埋め尽くしている。砂を敷き、石を置き、水草や魚を入れた水槽だ。
 生き物はいい。特にライカは魚が好きだ。何を考えているか分からないような顔でいて、じっと観察していると、色んな感情が伝わってくるような気がする。
 初めて水槽に入れられた時の戸惑いと、広い水槽に移された時の開放感。寝床が決まった時の安心した表情、餌を食べる時の嬉しそうな表情。それらを眺めて、この子は今どんな気持ちなのだろうと想像するだけで、何時間でもそうやっていられる。最初の水槽を立ち上げた時など、誇張ではなく本当に一日中眺めていたほどだ。
 ノースヘルから出られない自分を水槽の中の魚に重ねて見ているんだろう、とフォーに言われたことがある。それもある意味では間違っていないし、自分でも覗いたことのない深層心理ってやつではそういうことになっているのかもしれない。だけどそんなことはどうでも良かった。これが自分の傷を投影したただの舐め合いだったとしても、それを知ったところで何も現実は変わらないじゃないか。
 自分はノースヘルに生み出されたメンタルフォーサーで、そして日々の疲れを魚たちを世話し眺めることで癒している。その事実は何も変わらない。確かにここから出ることが出来ない窮屈さはあるが、最低限の衣食住は約束される。それらを放棄して得るほど、ライカにとって自由とは魅力的なものではない。
 水槽の中を泳ぐ魚たちも同じだ。与えられた自由は限られていて、水槽という檻の外へ出ることは叶わない。代わりに外敵はいないし、最も快適な環境が手に入る。餌の心配だってしなくていい。
 そうだ、餌をあげよう。
 ライカは水槽から離れて、チェストに仕舞った餌を取り出した。本当は生の餌をあげたいところだが餌用の保冷庫を置くスペースがない。管理も大変なので、妥協して乾燥された餌を選んでいる。
 一心不乱に今日のご馳走を食む魚を、同じ目線の高さでライカが眺めていると、デスクの上で電話が鳴った。
「……もしもし」
『あ、ごめん、僕。今、いいかな?』
 征二だ。
「何となく掛けてきそうな気がしてた。どうしたの?」
 聞かずとも分かっている。今日はα区での作戦があった。想定されていなかったが、雅とセブンが接触したと聞いている。大方それ絡みだろう。
『うん、まあ……用事があるって訳じゃないんだけどさ。何だか声が聞きたくなったというか……迷惑かもしれないけど』
「迷惑なんて……元気がないみたいだけど、大丈夫?」
 電話の向こうで征二が黙り込んだ。彼の悩みの種はいつも同じ、今回もきっとそれだろう。そう考えたライカは先を促さず、ただじっと待った。
 完全にデジタル化された通話にノイズは乗らない。聞こえるのは常に部屋を満たしている、ポンプの音だけである。
 やがて数十秒経ち、突っ立っていてもしょうがないと気付いたライカが椅子に腰掛けた時、右耳から小さく息を吸い込む音が聞こえた。
『ライカには、大事な場所……何を差し置いてでも守りたい場所って、あるかい?』
 飛び込んできたのは、予想外の内容だった。
「私にはない……かな。どうしたの?」
『僕にそういう場所があるとすれば、あの家だけなんだ。僕の記憶の大部分を占める場所。僕が僕だと確認出来る唯一の場所――もしそれを失ったら、って考えたら凄く怖くなった。あの家を守るためなら何だってする。何だってやる。そう思えるんだ』
 ライカは黙って話の続きを待った。征二の口調には言葉を選んでいる様子が伺えたし、多分、まだ本題には入っていない。
『……今日、α区で戦闘があった』
 ぽつり、と征二が呟いた。
『廃墟のエリア。立ち入り禁止の。僕は当然入ったことなかったし、思い入れなんてなかったんだ』
 多数のマインドブレイカーに囲まれて、しかしマークスはそれをほぼ一人で片付けてしまった。あまりにも鬼神じみた戦いに征二が声を掛けると、マークスは寂しそうに笑って言ったのだ。
 「ここは私にとって、とても大切な場所だから」と。
 こんな廃墟の何が大事なのだろう。引っ掛かった征二が帰投後調べると、理由が分かった。
『α区はね、マークスが日向和真と初めて出会った場所だったんだ』
 調べ続けるうち、今度はβ区での記録が目に留まった。彼女たちは度々ここを利用していたらしい。そこでふと、β区での戦闘でマークスに言われたことを思い出した。
 「この場所を、貴方に壊されたのでは堪りません」。そう、彼女は言った。
 マークスは思い出の場所を守るために征二を止めたのだろう。もっと言うなら、日向と同じ外見を持つ征二がそれを壊そうとしたことは、きっと耐え難かったのだ。
『もし誰かが――あの家を壊そうとしたら、多分僕だって全力で守ると思う。マークスの気持ちも、だから分かるんだ。だけど彼女にとって僕は、日向和真との再会を邪魔する存在でしかなくて、でも、それでも僕は――!』
 それでも僕は、日向の代わりじゃない。続く言葉は聞こえてこなかったが、ライカにとって察するに十分過ぎた。征二のB.O.P.での戦いは、常にちらつく日向との戦いだったのだ。誰も面と向かって言わずとも、比較され続けていることを彼は感じている。マークス達がいくら彼に日向和真を求めたって、応えられるはずもないのに。
「君は……」
 応えてあげたい。
 誰も彼に応えないなら、私が。
「君は、君でいていいんだよ。征二が他の誰かになるなんて、私は――嫌だ」
 これが彼の救いになるとは思わない。彼の置かれた状況が変わるわけじゃない。でも、これだけは。
 せめて、これだけは。

『ありがとう』
 電話の向こうで。
『ライカがいれば、僕はまだ頑張れるよ』
 彼が、笑った気がした。

 ハイバネートモードにした電話をベッドに放り投げ、そのまま自分もベッドに倒れこむ。これも任務の一環だ。作戦も佳境に差し掛かっている。深入りするのは良くない。
「……どうしよう……」
 だが、明らかにさっきのやり取りは限度を越えていた。いや、内容そのものが間違っていたとは思わない。訓練兵時代に世話になった教官の誰に訊いたって、合格が貰えるレベルだろう。問題は――
「私の気持ち、かぁ……」
 計算なんてなかった。そう言わなきゃいけない気がしたのだ。自分を自分と認識してもらえる、それは当たり前の話だ。その当たり前が、彼にはない。その中で抗って、抗うことで余計に傷付いていく征二に、少しでも伝えたかった。
 私がいるよ、と。
 私だけは、君を知っているよ、と。

 だが。

 ライカは、先ほどデバイスに配信された次回の作戦内容を、ベッドで仰向きのままもう一度読み返した。
 「直接戦闘」、「殲滅作戦」。
 深いため息をついて、枕を抱え込む。
 諜報任務は終わりだ。ノースヘル特務部第七連隊三番隊隊長、ライカ=マリンフレアに戻らねばならない。
「さよならだね、征二……」
 そうだ、私は――

 もう二度と彼と、友人として会うことは出来ない。

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