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BLACK=OUT 2nd

第八章第四話:蘇る感情

 目が覚めた時、最初に見たのは自分を覗き込む男の顔だ。年齢は中年と言って差し支えないくらいだが精悍な顔立ちで、髪は短く揃えられ、もしかしたら何かスポーツでもやっているのかもしれない、と思った。
「起きたか。ここがどこか分かるか?」
 男は目を細めた。笑ったようにも思えたが、眼光は鋭く、ただそれだけでないことが知れた。
 首を横に振ろうとしたが、激痛で叶わなかった。一度意識してしまえば体のあちこちが悲鳴を上げていることに気付いてしまい、喉の奥から呻きが漏れる。
「動かないで貰いたい。生き続けたいのなら——いや、あのビルの崩落を生き延びたのだ。それだけで十分奇跡的だが、まだ体にダメージが残っているだろう。動けと言われても動けないだろうな」
 ビル、崩落。何のことだろうか。それより、この体の痛みは何だ。
「ここはノースヘル管下の治療施設だ。私が君をここに収容させた。ああ、安心したまえ。日向はもう手遅れだった。最期に話せたか? 答えられんか。いや、どちらでもいい。君は君の目的を果たした。君にはもう、何の目的もない。B.O.P.へ戻れるわけもない。このままだと君は、いずれ発狂して死ぬからだ。我々ならそれも阻止出来よう。君次第だ。君がその力を我々に貸してくれるなら、我々も君の治療に全力を尽くそうではないか」
 一体、この男は何を言っているのだ。そして自分は、なぜここにいるのだ。只々、困惑するばかりである。
 男はそんなこちらの様子を怪訝な顔で見ている。訝るのはこっちだ。饒舌なこの男は何者なのだろう。
 そこでふと、男が白衣を着ていることに気付いた。ほとんど動かない体は仕方がないので、目だけで周囲を見回す。見えるのはほぼ天井だけだが、一部の壁とベッドの間仕切りに使われていると思しきカーテン、それに大層なスイッチ類が並んだ電気機器、そこから延びるケーブルとチューブが見えた。どれも清潔感のある白色をしていて、男の白衣はこの白の中に溶け込んでいる。ああ、だから気付かなかったのかと一人で合点した。
「ここは病院……ですか?」
 掠れてはいたが、ちゃんと声は出た。男にも正しく伝わったはずだ。だがなぜか男は、その怪訝の色を深めた。病院ではないのだろうか。しかし、この男は今、治療施設と言ったが。
 男はしばらく考えるそぶりを見せた後、ゆっくりと顔を近付けて、訊いた。
「君は自分が何者か、言えるかね?」
 今度は何だ。そんなこと——。
 答えようと口を開いたところで動きが止まる。僕は……僕は、何者だ?
 思い出せない。たった今、ここで目覚めるまでの記憶が一切ない。あるいは自分は今まさに誕生したのだろうか。そんなことがあるわけはないが、そう疑ってしまうほどに何もない。
「言えないか。……もう一つ、答えて欲しい。どうやら君は記憶を失くしたようだ。取り戻したいかね?」
 記憶を、失くした。その言葉がゆっくりと、脳に染み入ってくる。自分でも意外なほどに、この事態に対して冷静だった。慌てたり、混乱したりもしていない。しかし同時に、胸を掴まれたような苦しさが心を襲う。大切な何かを失ったような気持ちが心を塗りつぶす。何を見ても誰を見ても、知っている人はどこにもいない。たった一人で世界に放り出されたような心細さ。縋れるものなら何だっていい、この手を掴んでくれる人が欲しい。このまま誰もいない世界に溶けて消えてしまうのは嫌だ。僕を支えてきたはずのものは、もう何もないのに。
「——要らない」
 だが、口を衝いて出たのは拒絶の言葉だった。失くした記憶に興味なんてない。それより、自分がひとりぼっちでいることの方が辛かった。
「なるほど、そうか。詳しく診なければ確定出来ないが、どうやら君は解離性同一性障害に罹患しているらしい。……消えた人格のことは気にしなくていい。しばらくはここで傷を癒し、その後のことは追い追い考えよう。ああ、まだ名乗ってなかったね。私の名前は水島柾だ。よろしく頼むよ」

 ——思い出した。

 ——これは、僕が水島さんと出会った時の記憶だ。

 ——あの時の僕は、心細くて、不安で、そして寂しくて……。

 ——一人は嫌だ。誰でもいい、誰でもいいから、誰か——。

「征二!」
 ライカの叫びで我に返る。白昼夢は一瞬だったのか、状況は何も変わっていない。相変わらずマークスは囲みの中央で不敵に笑っている。
「何だったんだ、今のは」
「雰囲気よ」
 ライカがこちらを見ずに答える。
「メンタルフォースは感情の力。周囲の雰囲気で力の影響力が変わってくるわ。白は特定の感情を周囲に振り撒いて、私たちのメンタルフォースを弱め、自分のメンタルフォースを強化したってことね」
「特定の感情……?」
「ロンリネス」
 心臓が、どくんと跳ねた。
「寂しいという思い。——引っ張られたりしてない? 大丈夫よね征二」
 ああ、と答える征二の額に汗が浮かぶ。マークスの雰囲気に飲み込まれた時に征二を支配した感情、それはずっと征二の傍にいて、彼を動かしてきたものと似ていた。
 マークスに影響された? いや、違う。
 ——掘り起こされたのだ。
「長引くと厄介ね。一気に攻めるわ!」
 既に状況はマークスの掌の上にある。ジリ貧を嫌い、ライカは速攻を指示した。マークスは脅威だが一対多に不向きなインファイターであることに変わりはない。一斉に、連携してかかれば勝てる。マークスに唯一突破口があるとすればテクニカルだが、この距離では詠唱するだけの時間はない。ノースヘルと違って、B.O.P.では一単語で詠唱を完了する術式を採用していないのだ。
 マークスは両手の銃を構えもせず、だらりと腕を下げている。ライカ、セブン、雅の三人が、無抵抗のマークスに踏み込んだ。ぴくりとマークスの手が動く。
「リリース、ヴァリアスフェイト」
 マークスの唇が小さくその名を呟き、手にした銃を地面に向けて引き金を引く。マークスの足元が白く凍った。
「ダメだ、レジスト!」
 征二が叫び、三人が突撃の足を止める。しかし退転は間に合わない。地を這う白い冷気が一瞬で到達し、膝までを氷漬けにし、なおもその範囲を広げていく。そこにはもう、逃げ場などない。
「ライカ! みんな!」
 離れた位置にいた征二とフォーも例外ではなく、身動きを封じられていた。レジストが間に合ったのか、五人とも上半身は無事だが、足が凍りついて動けない。
「こんなもので! 燃えろ!」
 ライカの足元が赤く爆ぜ、その身を自由にする。本来ならもっと火力が期待出来るはずだが、マークスの雰囲気下では普段の半分も効果が出なかった。しかしそれでもこの拘束を脱するには十分だ。
「あんたんとこのは詠唱が長いのが欠点よね。私たちは負けない!」
 この規模のテクニカルをもう一度詠唱する時間はマークスにはない。残る二人を自由にすれば態勢を立て直せる。隠し球の尽きたマークスに、勝機はない。
 冷気と蒸気に白く塗り潰された視界を割って躍り出たライカに、マークスは——口の端を吊り上げた。
「ネクスト、ヴァリアスフェイト」
 怒涛。先程とは比較にならない冷気が、瀑布のように叩き付ける。マークスは笑った。高く、高く笑った。

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