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BLACK=OUT 2nd

第十一章第六話:さかいめ

 それは、静かな夜だった。
 ノースヘルとの、いや、水島との戦いを明日に控え、それでも意外なほどに、征二の心は落ち着いている。ベッドから見上げる天井に思い描くのは、たったひとつのことだ。
「何か、飲む?」
 訊きながらライカが立ち上がる。医務室に備え付けの冷蔵庫にはミネラルウォーターやお茶くらいしか入っておらず、開けて中を覗いたライカは落胆のため息をついた。
「ライカ、休まなくていいの?」
 いいの、今夜はここにいる、と言って、水で満たしたコップをふたつ手に椅子へ戻る。
「もしかしたら、最後になるかもしれないんだから」
 征二は体を起こして、コップの片方を受け取った。コップの中の水面が揺れ、生まれる波紋。それは幾度も反響し、その境界を曖昧なものにしていく。
 水島から解除キーを聞き出さない限り、この災害は止められない。たとえ水島を倒したとしても、それだけでは意味がないのだ。だから、ライカの言う通り、征二たちが勝つ可能性は極めて低いと言えるだろう。
「もしこのまま、私たちの人格が消えちゃったとして……征二は、どうなるんだろうね」
 元々の主人格、日向が消えるなら、征二は生き残る。日向がBLACK=OUTになっているというのなら征二は消えるだろう。征二が二番目であるかどうかは、どちらかが消えるまで分からない。
「……多分、どうでもいいことだね。うん、どうでもいいことだったんだ、そんなの」
 征二は、ゆっくりと、手にしたコップの中の水をくるくる回す。境界はもう完全にかき混ぜられて、もう区別は付かなくなっていた。
「水島さんはね……水島さんには、癖があるんだ。二年、一緒に暮らしてきて、僕はそれを知ってる。……僕は、『二番目』の水島さんに、言いたいことがあるんだ。だから、それを言いに行く」
「二番目?」
 ライカが首を傾げる。征二は、ただ笑って応えた。
「それより、ライカは本当にいいの? 行けば、きっとフォーたちと戦うことになるよ」
 きっと、そうなるだろう。彼らにとってライカは裏切り者だ。棲む家と、家族同然に育ってきた仲間を捨てたライカは、許されざる対象に違いない。そのことに躊躇がないと言えば、嘘になる。
「ごめん、僕が巻き込んだせいで」
「違うよ」
 ライカはぐいっと、手にしたコップを呷った。
「——巻き込まれたんじゃない。最初から、これは私の戦いでもあったんだよ」
 母体に涙を流す青年に、囚われたガラスの中で藻掻く青年に、ライカは強く興味を惹かれた。青年のことをもっと知りたいと思った。自分だけが迷う青年の道標であると、暗闇の中の灯火であると、そういう自覚もあった。
 ——そして、それはとても心地良かった。
 征二は私がいないとだめだから。私がいるから征二は頑張れるんだ。彼が最後に頼るのはきっと私だ。だから私は征二にとって特別で——そしてそれは、決して侵されることのない聖域だ。
 聖域の中で征二は苦しみ、迷い、反発する。マークスたちを敵視し、足掻く。出口のない聖域をぐるぐると、傷付きながら転がる征二を、ライカはただ、上から見ていた。そう、全て、聖域の中の出来事だと思い込んでいた。
 だが、実際はそうじゃない。
 聖域の中に飼っていた征二は奪われた。いとも容易く、その根を枯らした。ずっと自分を必要としているはずの征二にライカの声は——届かなかった。
 征二が日向であったという事実が、一瞬で聖域を砂にする。いや、その聖域こそ、ライカが見ていた幻だ。適当な札を付けて彼らを括り上げ、自分と「そうじゃないもの」に、勝手に仕分けたに過ぎない。
 最初から、聖域なんてなかった。奪われた征二を取り戻したいなら、ずっと自分が上から見ていた争いの中に飛び込むしかないのだ。征二にはライカが必要? ライカがいないと生きていけない? ——笑えない冗談だ。そう思って安心しながら、いざ彼を奪われたら、ライカにこそ征二が必要で、いなくなったらどうしたらいいのか、分からなくなっているくせに。
 征二を取り戻したいなら、戦うしかない。征二がずっと戦っていた場所に、最初からそこにいたという自覚を持つしかない。——もう、傍観者ではいられないことを、知るしかない。
 そして、その戦いは、とても怖いことだ。大切なものに順序を付け、他でもない自分が選ぶということだ。
 選ばなかったものを失うことよりも、征二を失うことの方が、ライカには怖い。ノースヘルの皆を捨てることに心苦しさもあるが、それでもライカは征二を取り、征二のそばにいることを選んだ。
 この思いに名を付けるなら、きっと、これが恋なのだろう。
「本当は、ライカは連れて行くべきじゃないと思う。仲間のみんなと戦わせたくないんだ。きっと、ライカには辛いことになるから」
 でも、と征二は、少し照れたように笑う。
「何もなくなって、僕だけになって、そうなって、じゃあ僕に何が残ってるだろうって考えたら、やっぱり君だった。いや、違うな……うん、君の迷惑も考えないで、それでも君と一緒にいたいって思う僕が残ったんだ。君が一緒にいてくれれば、僕は僕でいられる。ライカが僕を繋ぎ止めてくれる……そうだね、ライカ、僕は——」
 月明かりに照らされた、青白い部屋の中で、
「——僕は、君が好きなんだ」
 その静寂に、ライカと征二の境目は溶けてしまって、もう、区別なんて付かなかった。確かめるように、ライカが征二の手を握る。手に感じる暖かさを、征二も感じてくれているだろうか。
 やがてその違いも曖昧になり、どんどん二人はひとつになっていく。抗いがたい心地よさの中、ライカの中の誰かが、ライカを突き動かす。
 もっと。
 もっと叫べと。
 私は、ライカ=マリンフレアはここにいると。
 その衝動に押されるまま、すっとライカは征二に顔を寄せる。
 それは、静かな夜だった。
 世界の終わる前の夜、月だけが二人を見ていた。

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