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BLACK=OUT 2nd

第十二章第九話:紅の華

 体が重く、動かない。マークスが掛けてくれた補助テクニカルは肉弾戦を考慮したもので、対テクニカルユーザーは想定されていなかった。体の痛みは軽減しても、心の痛みは軽減してくれない。床に伏した四肢から、立ち上がる力が奪われる。意識が泥沼のような暗闇に呑まれていく。負の衝動に抗えず、意識が薄れていく。視覚はもうほとんど働かず、聴覚も、マークスの悲鳴が遠く響く程度には役に立たなくなっていた。
 水島が、使えるはずのないメンタルフォースを使った。それは心の準備を許さない、ある種完全なカウンターとして、威力以上の効果を発揮した。なぜ水島にメンタルフォースが使えたのか、徒人と言ったのは謀りか、その思慮を巡らせることすら、今の征二には不可能だった。
 ——ああ、悔しい。
 またここで、何も出来ないまま倒れてしまうのか。水島には敵わないのか。指一本動かすことすら出来ず、水島に伝えたいことすら伝えられずに、世界は終わるのか。
 結局、これが今の自分の力だ。どんなに飾っても、どんなに奮っても、自分に出来ることが急に増えるわけじゃない。出来ることしか出来ない、その事実は変わらない。これが、今の自分なんだ。
 ——だから、

 だから、助けて欲しい。力を貸して欲しい。今の自分じゃ届かないその先に、この手が届くように。もう一度立ち上がれるだけの力が、この胸に湧き出でるように。

「ごめんね、征二」

 声が聞こえた気がした。強く、はっきりとした声は、今ここにいない、いるはずのない少女の声だ。
「私が、あなたを守るから」
 幻聴はなおも続く。これは自分の弱音が見せた幻なのだろうか。いや、幻でもいい。その声で、姿で、戦う力を与えて欲しい。
 征二は自由にならない体に渾身の力を込めて、瞼を持ち上げる。視界の周囲は黒く靄が掛かっているが、ぼんやりと征二と水島の間に割って入る人影が見て取れた。大きく腕を広げ、征二を庇うように立つ少女。白いコートに、後ろで縛った長い赤髪の、見慣れた姿。征二が渇望する少女。
 ——ライカ=マリンフレア。
 微動だにしないその背中は堂々と、少女の決意を征二に語る。
 ——そうか、なら。
 なら、こんな所で倒れているわけにはいかないな。
 立てよ、水島征二。彼女はここにいるんだ。今立たなきゃ嘘だ。歯を食いしばれ。弱気や弱音に押さえつけられてる場合じゃないだろ。もう一度言うぞ、水島征二。彼女は、今、ここにいるんだ。

 これ以上心強いことがあるか!

 突然、征二との間に割って入ったライカにも、水島は驚いた様子を見せなかった。狙いが明らかになった後も、変わらず水島は底が知れない。何を考えているのか、読めない。怖くないと言えば嘘になる。それでも今は、精一杯強がるしかない。ライカは両手を広げて、もう二度と征二には指一本触れさせない覚悟で、水島を睨む。
「そうか、結局お前は、こっちに来たんだな。てっきりフォーやセブンと、亡き仲間を偲んで慰め合っているのかと思ったが」
 水島は淡々と、世間話でもするかのように、まるで警戒というものが感じられない。相手がライカだからか、手の内を知られている以上、それも当然か。
「だが、そうだな。お前がここに来るのは、私の計画にはなかった。お前が相手となれば、俺も本気を出さないとな」
 水島の目から光が消える。水島は懐に手を入れると、そのままごそごそと何かを操作した。
「よし、MFCのターゲットをお前に変更したぞ、ライカ。これで俺に向けられた全てのテクニカルはお前に飛んでいく。結果的に征二は安全だ。そっちの心配はしなくていいぞ。さて、それじゃ」
 水島が拳を構える。
「やろうか、ライカ」
 ライカはちらりと征二を見る。倒れたまま動かない征二は、自分がちゃんと最初から付いていれば、こうはならなかったかもしれない征二だ。征二を傷付けたのは自分。迷いと覚悟の甘さが生んだ疵。
「ごめんね、征二——私があなたを守るから」
 もう振り返らない。ライカは目の前の敵を討つべく、拳を構える。右手を引き、左手を上げる水島の構えとは逆に、右手で顎を守り、左手で腹部を守るスタイルだ。単純な腕力では水島に敵わないことは知っている。なら、それを手数で上回るしかない。
 対峙する両者は廻りながら、少しずつその間合いを詰めていく。
「まさかお前が征二を連れて出奔するとはな。征二を引き込むための、まあハニートラップのつもりだったんだが、完全に私の計算違いだったよ。征二の奴、上手く女を引っかけやがって」
 苦笑する水島は、どこか楽しそうだ。一方のライカは、こちらは楽しそうな顔をする余裕なんてない。気を抜いたらこの男は容赦なく刺しに来るだろう。気持ちの上では既に負けている。
「そうですね、あの時の私は——いえ、私たちは、それが全部あなたの計略なのだと知らなかった。知らずに、踊らされてしまった。征二が封神の力を使うまでは。だけど、もう違います。あの時、私は征二を連れてここを出た。あなたの計画を揺るがすために。征二を不要だと言い捨てた、あなたの計画を。これは私たちの反撃です。あなたが利用し、用済みになって捨てた私たちの反撃です」
「なるほどな——ひとつ、いいことを教えてやろう」
 水島は、何か秘密を打ち明けるような、場違いにもおどけているような調子で囁いた。
「ノースヘルの人工メンタルフォーサーがノースヘルを裏切らないのは、そうするように洗脳されているからだ。だからノースヘルの兵士は飼い主に噛みつかない。そこに本人の意志が介在する隙間は、ないんだ」
 ライカの頭に血が上る。この期に及んでなお、水島は全てが自分の掌の上だと思っているのか。噛まれるはずがないと、まだ思っているのなら——
「なら、噛んでやる! 噛みついて、食い千切って、そして思い知ればいい! 征二がどれだけ苦しんだか、征二がどれだけ辛かったか! そんなにされて、あんたに、こんなことされて! それでも征二は——!」
 爆発した激情そのままに、ライカが大きく踏み込む。それはライカの限界すら超えて、もはや獣だった。殴り付けた右の拳は水島の左頬を裂く。散った紅が宙に花咲き、鮮やかな紋様を描き出す。そこには儚さと哀しさと、奇妙な美しさが同居していた。
 辛うじて避けた水島が目を見張る。水島の頬には血と冷や汗が、そしてライカの頬には涙が滴っていた。

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