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屠殺のエグザ

第一章第二話:異形 と 少女

 晶は、頭でぐるぐる巻きにされている包帯に手をやった。あまりにも派手な巻きように、思わずため息がこぼれる。
 当然、自分がしたのではない。 夕方の騒動の後、約束していた中学時代の――今は別の高校へ進学した友人宅へ遊びに行ったところ、満身創痍で現れた晶の姿に腰を抜かした彼の母が施したも のだ。しかも何を勘違いしたのか、ご丁寧に左眼には眼帯まで掛けてくれた。もっとも、額からの出血で眼の周りも血塗れであったため、そう勘違いされてもお かしくはない。よく見れば傷など無いことは判るはずだが、彼女に傷の手当てなどとんと心得の無いことは、晶もよく知っている。彼の家とは小学生の頃からの 付き合いであるが、当時は転んで出来た擦り傷に真顔でセロハンテープを貼ろうとしたような母親だ。それに比べたら、今は随分と進歩したものだと思う。
 ――まあ、それでも。
 晶は、すっかりと暮れた空を見上げ、不器用に巻かれた包帯に、再び手を触れた。
 ――何ていうか、あったかいっていうか、

 落ち着ける、安心できる。
 これが、母親のぬくもりってやつなのかな。
 俺には……よく、解らないけど。

 それにしたって、眼帯はやりすぎだと晶は思う。これでは前が見えないし、そうなると必然的に前髪をかき上げ、右眼で見なくてはならない。
(使いたくないんだけどな、右眼)
 何だか怖いっていうか……一種のトラウマ?
 自問自答しつつ、それでも何となく、眼帯を外す気にはなれなかった。何となく、今感じているぬくもりが、惜しかった。
 そして、結果的には。

 それが、彼の命を救ったと言える。

 月さえ見えぬ曇り空。
 暗みに明る住宅街。
 一度坂を下りきって、
 公園の脇を抜け、
 古びた雑居ビルの角を曲がった向こう側に、

 そいつは、いた。

「な……?」
 最初は、何か解らなかった。
 それが動いた時に、生き物だと知った。
 次の瞬間には、見間違いだと我知らず言い聞かせていた。
 大きく見開いた右眼に映るのは、紛れも無く生き物で。
 厳然と、そこに存在していた。

 あり得ない、形を伴って。

 悲鳴を上げようと口は開けたが、声が出ない。呼吸が出来ないみたいに、ただパクパクしているだけだ。ならばと後退れば、足が僅かに下がっただけでそれ以上動かない。
 目の前の生き物は、全体的に丸みを帯びていた。
 触覚が生え、複数の足と、丈夫そうな外骨格を備えている。体全体から見れば随分小さめな頭部には一対の眼。前足は特に発達していて、鎌のように掲げられている。
 そう、その特徴は虫に酷似していた。では虫かと問われたら、晶の本能がそうではないと告げるのだが、特徴だけを挙げれば虫と言って差し支えない。
 その虫が、少しずつ、焦らすように、晶へ近付いていく。

 軽自動車ほどの大きさを持つ、体で。

 その思考も窺い知れない眼が、微かに動いた。直後、全く動けなかった晶が、反射的に身を屈める。頭上、髪を散らしながら、鎌が通り過ぎた。
「う……ああああっ!」
 ここに来てようやく、晶は悲鳴を上げる。獲物を逃した異形が、先ほどとは反対側の鎌を振り上げる気配を感じ、晶は必死で後ろへ跳んだ。が、屈んだ姿勢と混乱のせいか、腰を抜かしたような格好で、後ろへ倒れこむ。足先の路面に、鎌が突き刺さった。
 ばたばたと手を動かして、逃げようと試みる。しかし、既に冷静な判断など望むべくも無い晶は、同じ場所でただ動くだけだった。
 異形が、刺さった鎌を抜く。じりじりと距離を、まるで間合いを微調整しているように詰めてくる。
 晶の見開いた右眼は、その様子を余すことなく映していた。
 判る。
 こいつは、俺を殺そうとしている。
 理由は解らないけど、殺そうとしている。
 街灯を反射しない、しかし艶やかという矛盾を持った外骨格の向こうにある筋肉が収縮し、鎌を持ち上げた際の姿勢を安定させるために動いている。ならば、先に待つものは。
 判る。
 鎌を持ち上げると同時に、振り下ろす気だ。
 逃げる間など、もう与えない気だ。
 判る。
 判る。
 俺には判る。
 なのに。
 なのに。

 ――逃げられない……!

「立ちなさい!」
 声が、闇を切り裂いた。晶は言われた内容とは裏腹に、しかし反射的に地面を転がる。頭上を、人影が跳ねた。
 散る火花。人影の手には、何か棒状の物。あの異形の鎌を、それが受け止めている。
「あ……」
 桜色のロングコートを着たその少女は、鎌を受けた姿勢のまま振り返り、叫んだ。
「何してるの、早く逃げて!」
 弾かれるように、晶はその場を逃げ出した。遠く、鈍い音を聞きながら。

「な……何だったんだ、あれは……」
 肩で息をする。あの妙な生物も謎だが、あんなものに突っ込んで――助けてくれた、あの娘も――

 ――あの娘は、無事だろうか。

 とりあえず、逃げ切れたようだ。助けてもらって何だが、これでもう自分は無関係。いや、あんなモノに関わり合いになどなりたくない。あの娘がどうにかなっても、自分では助けることも出来はしない。
 ぽつりと、雨粒が顔に当たった。降ってきたか、と鞄から傘を取り出し、差そうとして、

 目の前に、先ほどの異形が飛び出してきたのが、視えた。

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