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屠殺のエグザ

第十二章第六話:迷走 と 疾走

 ゆっくりと、慣れた手付きで我が家のドアを開ける。玄関は暗い。晶は疲れた様子で、鞄を放り投げた。
 家の中に、人気はない。階段を降りてくるこよりもいない。二階から、不穏な音が聞こえてくることもない。
 ここにはもう、誰もいない。
 靴を脱ぎ、晶はリビングに入った。

 ――零奈に襲われた日。
 こよりの二つ名、〈屠殺のエグザ〉を暴露された日。
 こよりは、泣いていた。
 このリビングで、そうならざるを得なかった自分に、泣いていた。
 傷付きながら。
 傷付けながら。
 他に、どうすれば良かったのかと。

 今、このリビングに、その声は聞こえてこない。
 知っていた。気付いていた。こよりが何かを隠していることを、こよりが晶を、心から受け入れていないことを。
 それでもいいと思っていた。それがこよりの望みなら、こよりの願いなら、こよりの居場所に繋がるのなら。
 そして、そこに自分はいなかった。こよりは世界を壊し始め、全てをなかったことにしようとしている。

 それがこよりの願いなのか?
 本当にそれでいいのか?

 答えられない。
 何が本当で、何が嘘なのか。

 扉の前で、晶は深呼吸をした。こよりに貸していた客間。あの日から、晶は一度もこの扉を開けていない。
 冷たいドアノブに手を掛ける。胸が締め付けられる感覚。晶は意を決して、ドアノブを押した。

 中は、がらんとしていた。
 私物など何も残っておらず、ただ主を失った空間が妙に広く、寒々しくあるだけだ。
 間もなく、陽が落ちる。薄暗い部屋の中で、晶は立ち尽くしていた。
 元々こよりは、あまり物を持っていない方だった。根を張るつもりなどないと、言わんばかりに。
 それでも、最低限の私物はあった。通学に必要な物だとか、日用品だとか、それすら、何一つ残されていない。こよりは、あの日のこよりは、既にもう、荷物を引き揚げた後だったのだ。
 言いようのない感情が、晶を襲う。
 哀しみ? 寂しさ? 苦しさ? 切なさ?

 多分、どれも違う。

 時が止まったような錯覚すら覚えるこの部屋に、どれくらいいただろうか。五分か、一時間か、これ以上ここにいるのはただ辛いだけだと、晶が部屋を出ようとした時、視界の端に何かが映った。沈む直前の陽の光を受けて鈍く輝くそれは、机の上にあるようだ。
 ――あれは?
 晶がゆっくりと、机に近付く。

 机の上には、一振りのロッドが置かれていた。

(これは……こよりの……)
 見紛うはずがない。これは、こよりがずっと持ち歩いていた折りたたみロッドだ。
 手を伸ばす。
 それに触れる。
 冷たく硬い感触。
 もう本質は見えない。だが、この手がそれを伝えてくれる。
 表面に、そっと指を滑らせる。感じる凹凸はキズ。長い時を共に過ごした証。こよりと過ごしたキズナ。こよりは、それをここに置いて行った。これを、これだけは、置いて行った。
 初めてこよりと会った夜。こよりは、このロッドを持って戦っていた。
 共に戦うと決めてから、晶はこのロッドをよく借りた。
 ラーニンと戦った時、このキズのせいで武器をもぎ取られた。

 戦い始めたこよりの疵。
 戦い続けたこよりの傷。

「ああ……そうか。……そうだよな」
 晶がロッドを掴む。ずっしりと重いロッド。この重みを、この痛みを、

 俺は、背負うと決めたんだ。

 ロッドを腰に差し、部屋を出る。あまり時間はない。手早く準備をして、玄関のドアを開けた。

 そこに立っていたのは三人。
 互いに掛ける言葉はない。多分、これは、分かっていたことだ。
 晶は、一人一人、視線を送る。腕を組んだまま、小さく頷いたラーニン。嬉しそうに手を振った真琴。安心したように眼を細め、少し寂しそうに笑った零奈。
 彼等は友人か?
 ――いや、違う。
 では、仲間か。
 ――それも多分、違う気がする。
 目的も、動機も、最後に辿り着く場所も、きっとみんな違う。同じ方向に向いているわけじゃない。
 なら、何なのだろう。

 こよりか。

 こよりがいたから出会った。
 こよりがいたから関わった。
 ここにいる全員が、こよりを中心に繋がっている。こよりに向いて、ここにいる。

 ――なあ、気付けよ。

 ――お前にとって、この世界は……。

 再び、ここにやって来た。
 眼を奪われた場所。こよりと宗一の、はじまりの場所。世界が壊れていく、その中心。
 ここに、二人がいる。
「……酷いな、これは」
 ラーニンが、険しい顔で建物を見上げた。釣られて見上げた晶には、何が酷いのか分からない。だが、十分に想像出来た。世界を飲み込むほどの空間の歪み。それをこんな真近で見ているのだ。ラーニンの形容も頷ける。
「気分が悪くなるわね、さすがに」
「ううっ、吐きそうです……」
 女性二人の表現はよりストレートだ。きっと晶も、眼があれば同じ感想を抱いただろう。
「こんな所に長くいることはない。さっさと終わらせよう」
 ラーニンが、建物の中へ一歩踏み出した。そこで一瞬、ラーニンの動きが止まる。
「……大した数だ。進むにも骨が折れるな」
 後ろから覗き込んだ晶には、がらんとした廃墟が見えるだけだ。しかし後ろでは、零奈と真琴がそれぞれ武器を準備している。
「やっぱり、〈浸透者〉が?」
「うむ。これだけ空間が歪んでいるんだ。当然といえば当然だな。しかし……」
 ラーニンも、武器を〈対置〉し構える。全てを両断する大剣、〈断罪剣〉だ。
「ここで足止めを食っている時間はない。〈急進の射手〉、〈疾風の双剣士〉、一気にここを制圧する!」
 言うが早いか、巨躯に似合わぬ俊足でラーニンが踏み込んだ。
 〈析眼〉のない晶が追える速度ではない。反応出来ないでいる晶の傍を、零奈と真琴の二人が駆け抜けた。
 ラーニンが〈断罪剣〉を横薙ぎに振るう。弧月を描き宙を斬ったようにしか見えないが、多分そこに〈浸透者〉がいるのだろう。未だ瞼に残像の残る剣先の下を掻い潜り、真琴がさらに前へと飛び出した。その後ろを追い、雨の様に降り注ぐ閃光は、零奈の放つ〈アトラーバオ〉の矢である。
「行け!」
 叫びに、我に返る晶。ラーニンが、こちらを見ている。
「〈析眼〉のないお前なら〈浸透者〉の影響を受けない! 行ってこい! 彼女のことは、お前に託す!」
「少しくらいきつく言ってあげればいいわ。あまり迷惑かけるな、ってね」
 零奈と、
「晶先輩に任せます。ここは任せて下さい!」
 そして、真琴と。
「……分かった。みんなも……頑張って」
 晶は、走り出した。気の利いた台詞なんて出て来やしない。それよりも、ずっと心が呼んでいる、ずっと名前を呼んでいる、たった一人を、ずっと。
 それだけが、晶を後ろから追い立てる。
 早く行け。止めろ。間に合わないぞ。間に合わせろ。
 色んな声の中で、一際大きな声が胸を占める。

 会いたい。こよりに、会いたい。

 晶は駆ける。ただ、前だけを見て。

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