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屠殺のエグザ

第一章第三話:傘 と 鞄

 少女は一度間合いを離すと、手にしたロッドを握り直した。大丈夫、あの少年は逃がした。あとは、こいつを片付けるだけだ。
 ひと呼吸、神速の踏み込みで、一度離した間合いを詰める。目前にぐわんと迫る異形の姿。異形は反応し、右の鎌で少女を薙ぎにかかる。しかし、それも少女には視えていた。異形の鎌が振られるよりもなお速く、鎌の軌跡の下に入る。危なげなくかわした攻撃、その隙間に。

 己が打撃を、叩き込む――!

 腹から突き上げるように打ち込まれた攻撃に、異形は大きく吹き飛び、立ち並ぶ住宅の壁をすり抜け、向こう側へと消えた。
「しまった!」
 少女が急ぎ異形が消えた先へと回るが、既にそこには姿無く、跳躍に使ったと思われる爪跡がいくつか、路面に残っているだけだった。

 避けられないと解った。
 走り続けたのが仇となっている。今の自分には、図体の割に俊敏なこいつの攻撃を避けるだけの体力は残っていない。
 ましてや。
 異形は晶を見つけるや、既にこちらへ突進している。
 考える間すら与えられない状況に、晶は諦めにも似た心境で対峙していた。

 手には、差そうと思っていた、傘。
 雨が、顔に当たる。
 やがてその雨は己の血飛沫に変わり、自分の顔を塗らすのだろう。
 だって、もう避けられない。
 逃げることは、もう出来ない。

 晶の、傘が握られた右手が、前へと――異形へと、突き出される。

 ――逃げられないなら――、

 ロックを、解除。押し縮められていたばねが、その弾性に従って元の形状に戻ろうと伸び、そこに連結しているフレームが放射状に広がり、開く。

 ――受けてやる!

 あるいは、投石さえ易々と通すであろう薄いビニールの傘は、

 しかし、異形の攻撃を通すことなく、弾き飛ばした。

 勢い余ってか、突進力がそのまま逆方向へ働き、異形は吹き飛ばされる。
(俺……何を?)
 自分がしたことながら、晶は面食らっていた。まさか、こんな傘で相手の攻撃が防げるなどとは思わなかった――いや。

 これなら大丈夫、敵の攻撃は通さないと、あの瞬間はそう思ったのだ。

 予想外の防戦を受けた異形が、様子を伺うように、ゆっくりと立ち上がる。その時、異形と晶の間に、人影が立った。
 桜色のロングコート。黒いロングブーツ。後ろでまとめられた、長い髪。手には、ロッド。
 先ほど助けてくれた、少女だった。
「ごめん、逃がしちゃった」
 少女は晶へ振り返り、てへ、と舌を出した。
「大丈夫、すぐ済むよ」
 前へと少女は向き直る。瞬間、彼女のまとう空気が変わった。口調は変わらず、しかしぞっとするほどの冷たい空気を伴って。
「今、返依(かえ)すから」
 少女は呟き、路面を蹴る。軽いステップに見えるその動きで、少女は二十メートル近くの距離をゼロにした。
 とりあえず、敵の動きを止める。外骨格を破壊し、内腑に直接ダメージを与えねばならない。渾身の力で、ロッドを振り下ろす。
 この速度に、異形は反応出来ないでいる。筋肉にも動く兆候は見られない。外骨格の強度も、弱い部分も、全て少女には視えている。この力で、ここに、この角度でロッドを叩き込めば、違わずそれはこの殻を破砕し、そのまま内腑までダメージを与えるはずだ。
 終わり。そう、少女は確信した。ロッドが触れる直前、異形の外骨格が、何の前触れも無しに硬度を増すのを見るまでは。
(そんな……浸透度が上がった!?)
 振ってしまったロッドは戻らない。それはそのままの速度で異形の体に接近し、鈍い音を響かせた後、少女の手から弾かれ何処へか消えた。
「くっ!」
 その時点でようやく反応速度が追いついた異形は、手に痺れが伝わっているであろう少女へと向けて、鎌を薙ぐ。身を屈め、回避。反対側、左側の鎌が、リズム良く再び少女を襲う。少女は、屈した反動を利用し、異形を飛び越え前方に跳躍した。着地し、間合いを整える。
 ――あの状況で浸透度が上がるなんて、何てツイてない……。
 少年は異形を挟んで向こう側にいる。その気ならいつ襲われてもおかしくないが、幸いと言うべきか、形勢有利と見た異形はこちらに向き直っている。
 それにしても、随分と硬くなったものだ。
 吹き飛ばされたロッドは、今が夜であることも手伝い、どこに落ちたか判らない。見えなければ回収出来ないし、仮に出来たとして、今のあれが相手ではロッドの方が先に曲がるだろう。おまけに、今は武器の手持ちもない。残念ながら、徒手で挑める相手でもないだろう。
 少女は、己の武器庫に収めた装備を順に頭に巡らせ、周囲を見回す。
(傷を付けられそうな武器はあるけど、質量が合いそうな物が何にも落ちてないや)
 武器が大体一キロちょっと……空き缶じゃ軽過ぎるし、さすがにそこに停まっている自動車じゃいくら何でも重過ぎ。
 どっかに落ちてないかなぁ、一キロくらいの物、と少女が周囲に視線を巡らす間に、武器の無い今が好機と見たか、異形が鎌を振り上げて向かってきた。この状況では、避け続けるしか選択肢が無い。
(さてと、どうしよっか、これから)

「ああくそ、何してんだよあいつ。武器も飛ばされて……!」
 毒づくものの、まさか加勢に行くわけにもいかない。戦いの心得があるわけでもなく、そもそも武器が無いのは自分とて同じだ。
 少女はよく避けている。常にぎりぎりではあるが、しかし危なげなく、確実に。まるで敵がどう動くかが見えているようだ。
 ――いや。
 それなら、自分も視えている。
 異形が次にどう動き、どこを狙い、どこを通って鎌が振られるのか、それが全て、事前に判る。
 ふと少女がこちらに視線を寄越した。何かを見つけたように眼を見開くと、叫ぶ。
「そこの君! その鞄を、こっちに投げて!」

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