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屠殺のエグザ

第十二章第三話:この眼 と この手で

 晶がこよりの家に着いたのは、夕方だった。別段、遠かったわけではない。距離にしておよそ一駅分、今日はバスを利用したが、歩いたとしても一時間掛からないだろう。
 ではなぜこんな時間になったかというと、「準備が出来たら電話する」と言っていた宗一からの連絡がなかったためだ。「思ったより家の片付けに時間が掛かった」とは、電話口での宗一の言。さて、一体どんな場所なのかとやって来た晶だったが――。
「ここ……なのか?」
 眼の前に立ちはだかるコンクリートに、晶が茫然と呟く。夕陽を受けて赤く染まる建築物は、明らかに人の手を離れて久しい。元が頑丈な造りだったのか、倒壊こそ免れているが、腐食の進んだ壁剤や鉄骨は、少なくとも人の住む、いや、住める場所ではないことを物語る。
「うん……驚いた?」
 一緒に来たこよりは、並んでこの建物――自分の「家」を眺めた。
「元は、何かの研究施設だったみたい。潰れて、誰もいなくなって、壊されないまま捨てられた……ここが、私たちの、〈此の面〉での家」
「ここで、こよりたちはずっと……?」
「これまでも、これからも」
 だが、何故ここなのか。その問いは、自然に出た。何もわざわざこんな場所に住まなくても、もっといい場所はいくらでもあったはずだ。
「この世界は、こちら側と向こう側、二つの世界で出来てる」
 〈此の面〉の向こうには〈彼の面〉があり、皮一枚で繋がっている。――ならば、皮の向こうは。

「〈彼の面〉のこの場所はね、私たちの本当の家なの」

 中は思ったよりも広かった。外見と同じく腐食が進んでいることを除けば、あるいは雨露を凌ぐ程度なら十分耐えられよう。が、それにしても住居としてその役割を全うしているとは、到底思えなかった。
 窓から多少の明かりは入っているが、それでも室内は薄暗い。廊下から、部屋の向こうに部屋があったりするので、窓のない部屋も多いためか。
 何の研究をしていたのか分からないが、極端に狭い部屋があるかと思えば、無闇に広い部屋もある。隅に積み上げられた装置は、一体何に使うものなのだろう。いずれにせよ、今はもう動きそうにないのだが。
 剥き出しのコンクリートの中を、こよりは迷わず進む。同じような構造に加え、複雑に曲がりくねる廊下は、一度置いていかれたら二度と再会出来そうにない。晶は周囲に視線を配りながらも、黙ってこよりに着いていく。
 やがて、廊下は別の廊下に突き当たった。すぐ左に、階段が見えている。上り階段と下り階段――外観からは分からなかったが、地下があるらしい。
「こっち」
 こよりは、階段を上っていく。今にも崩れそうな階段だが、どうやら大丈夫なようだ。がらんとした空間に、二人分の足音が響く。
 二階。こよりはまだ上る。やがて辿り着いたのは最上階。七階だ。
「エレベーター、動いてないから」
 奥へと進む。幾つかの小さな部屋を抜けて、そして開けた大きな部屋に出た。
「ただいま」
 こよりが、部屋の中央に立つ人影に声を掛けた。人影が、ゆっくりとこちらに振り向く。
「おかえり、姉さん。――いらっしゃい、晶さん」
 宗一の顔に笑みが浮かぶ。窓を背に、逆光がその顔を塗り潰して。
「驚きました? ……まあ、仕方ないことですが。ここは、僕と姉さんが新しく始まった場所なんです。そして――」
 靴の裏が、剥き出しのコンクリートを叩く。緩慢に、規則正しく、その音が響く。一歩ずつ、逆光の中の宗一が近付く。
「――この世界が終わって、始まる場所でもあります」
 口を開こうとした晶は、しかし阻まれた。後ろから、こよりが緩やかに抱き付いたのだ。
「それが、姉さんの願いだから。だから、これは僕の願い。僕の、誓い」
 晶の胸で、こよりの手が交差する。背中越しに、こよりの鼓動が木霊する。
「でも、僕は何も出来ない。出来損ないだから。何の力もないから」
 引っ張られる力に抗わず、晶は膝を突いた。首筋を、こよりの吐息がくすぐる。
「でもね、見付けたんだ。僕の願いを、姉さんの願いを叶える力。世界を壊し、作り直す奇跡」
 眼の前に、宗一が迫っていた。自らも膝を折り、晶の鼻先に顔を近付ける。晶は見上げ、宗一は見下ろし――やはり、逆光の中で。
「君だよ、村雨晶」
 ぞくり、とするほどの冷たい声。顔には笑顔を張り付かせたまま、しかしその眼は。
 胸にあったこよりの手が、少しずつ上がる。胸から喉へ、顎へ、頬へ――そして、眼へ。
「ありがとう、村雨晶。姉さんを信じてくれて。戦う決意を持ってくれて。……眼を、育ててくれて」
 こよりの冷たい手が、髪に隠れた右眼に触れる。宗一は――嗤った。
「じゃ、そういうわけだから。貰うね、〈析眼〉」
 見慣れた白光。コンクリートの部屋に、晶の咆哮が響く。こよりの腕を抜け、体を折り曲げて、晶はもがいた。かきむしりかねない勢いで、右眼を押さえながら。
「くっ……さすがに、きつい。馴染むには今しばらく必要かな」
 後ろに数歩、よろけるように下がり、同じように右眼を押さえる宗一。
「でも、いいね。やっぱりいいよ、この眼。視える、僕にも、世界が」
 宗一の、指の間から覗く右眼は晶の色。吊り上がる口の端、狂気すら窺わせる凶器。
「さて、早速使ってみたいな。……うん、この眼は君に貰ったものだから、君に使ってあげようか、村雨晶」
 でも、どうしようか。せっかくの〈変成〉持ちだし、組成を適当に組み替えてみようか。――宗一が、笑う。
「……宗一」
 晶を見下ろすこよりの眼に、一切の感情の色はなかった。
「分かってるよ、姉さん。僕たちの目的を手伝ってくれたんだ。お礼に見せてあげないとね。世界が終わる、瞬間を」
 だから殺さないよ。宗一が、楽しそうに笑う。
「……何を……するんだ……?」
 切れ切れに問う。馴染みのない眼球が、異物として晶の神経を焼いている。脂汗が額に浮き、呼吸ひとつままならない。
「僕たちはずっと、〈此の面〉に苦しめられてきた。〈彼の面〉と〈此の面〉、二つの世界があるから〈浸透者〉が生まれるんだ。僕たちはね、もう誰も、〈浸透者〉に殺されない世界を作りたい。だから〈此の面〉を壊す。君の眼なら、それが出来る。僕の手なら、それが叶う。僕は、この眼と、この手で――世界を〈変成〉してみせる!」

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